島の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:33 UTC 版)
11世紀 - 安倍貞任の弟である鳥海三郎が漁網を伝えたと言われている。 1200年頃 - 源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、日詰(現紫波町)を領していた日詰五郎(藤原基衡の孫)が落ち延びたとされる。伝承によると、その際に家宝である金鶏を連れて行ったが、鳴き声で敵にばれてしまうことを恐れ、海洞の中に閉じ込めたが、ある時嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまった。それ以来鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりができたという。 江戸時代には仙台藩に属し、1745年には政治犯が流される流刑地とされた。江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、「流人ころがし」と言われ、かつては罪人を突き落とす仕置場であった。仙台藩で上流に属していた流刑人も多かったため、風流を愛する気風が残されているという。その一人に豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、死後は島民によって手厚く葬られたというが、埋葬場所はその後農地として開墾されてしまったらしく、現在は確認できない。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日、アメリカ海軍戦闘機による機銃掃射攻撃を受け、民家や学校に損傷を受けた。 近年まで、頭に大きな荷物を載せた「陸前の大原女」が島の狭い坂道を行き交う風景が見られた。
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