岡崎と岡上用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/02 03:09 UTC 版)
「沼尾川 (榛名山)」の記事における「岡崎と岡上用水」の解説
榛名山が火山として活発に噴火した時期は大きく2期に分けられており、50万年前から25万年前まで(古榛名火山)、5万年前から現代(新榛名火山)に大別されている。6世紀に起きた2度の噴火では、伊香保温泉に近い二ッ岳が活動の中心となった。このとき発生した2度の火砕流はいずれも沼尾川を通ってくだり、一帯に軽石の堆積層を形成した(沼尾川火砕流堆積物)。特に沼尾川の左岸は比較的なだらかな高原状の地勢をなしているが、沼尾川はこの高原を削った峡谷を流れており、川の両岸は高さ50メートルあまりの断崖となっている。そのため高原は水を得難く、長年に渡り原野であった。 戦国時代には、上杉謙信が吾妻川と利根川の合流地点に築かれた白井城を支配し、武田信玄が吾妻川中流の岩櫃城を支配した。沼尾川は両者の勢力圏の境にあたる場所となり、要衝として沼尾川の下流左岸の段丘上に柏原城(根古屋城)が設けられた。城は水が乏しかったので、西にある箱島湧水から堀を築いて水路をひらこうとしたが、完成しなかった。江戸時代になると、白井城を中心として白井藩が置かれ、元和年間(1615年から1624年)に本多紀貞が藩主として迎えられた。その頃に沼尾川の左岸に陣屋が築かれた。紀貞は三河国の岡崎藩の出自であったことから、故郷に因んでこの陣屋を「岡崎」と命名したという。 岡崎への入植が始まると、代官に任じられた岡上甚右衛門景親は新田開発のために、沼尾川の上流に籍を築いて水路を開削し、岡崎地区へ導水する計画を立てた。この事業は、初代甚右衛門、2代目甚右衛門、3代目岡上景能と親子3代に渡って受け継がれ、70年かけて完成をみた。設けられた堤は「たかや堰」と呼ばれている。漏水対策として取水口の底は石敷きとし、そこから約2里(約8キロメートル)にわたり、幅6尺(約1.8メートル)、深さ1尺(約30センチメートル)の水路は「岡上用水」と呼ばれている。事業を成し遂げた岡上父子は「岡上大明神」として榛名神社に祀られている。 なお岡上用水が実際に当時の岡崎の稲作にどの程度寄与したのかについては、諸説あり不確かである。当時の年貢の記録によると、岡上用水が利用されていた水田はわずか1町3畝(約1ヘクタール)にとどまっている。そのために、岡上用水はもっぱら飲料水として利用されていたと考える説もある。岡上用水を利用しての新田開発が本格化するのは幕末から明治以降のことであり、現在の同地区の水田のほとんどは明治時代に開墾されたものである。
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