山田健一_(ゴルファー)とは? わかりやすく解説

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山田健一 (ゴルファー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 22:37 UTC 版)

山田 健一
Kenichi YAMADA
基本情報
名前 山田 健一
生年月日 (1947-03-24) 1947年3月24日(78歳)
身長 174 cm (5 ft 9 in)
体重 77 kg (170 lb)
国籍 日本
出身地 東京都
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山田 健一(やまだ けんいち、1947年3月24日 - )は東京都出身のプロゴルファー

来歴

成城学園中学校時代の同級生には後に俳優となる田村亮がいる[1]

15歳でゴルフを始め[2]1964年全国高校ゴルフ選手権では個人戦で4位に入る[3]

日本大学ゴルフ部では西田升平[4]沼澤聖一の1年後輩に当たり[5] [6]、竹田昭夫監督のスパルタ指導で頭角を現す[7]。4年次の1968年には全日本学生と関東学生、中日杯を取り[2]中部銀次郎と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に初めて選出される[8]。卒業後の1969年1970年には日本アマ、関東アマに勝って鳴り物入りで1973年にプロ入りする[2]

1969年の日本アマでは入江勉をプレーオフで倒し[9]、1970年には母校の後輩である高橋信雄、入江と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に選出されて個人戦10位に入り[8]1971年には第1回JALオープンと中日クラウンズでベストアマを獲得[10] [11]

1974年の東京チャリティクラシックでは2日目に1イーグル、7バーディ、2ボギー65のコースレコード・タイを出して26位から一気に青木功と並んでの3位タイに浮上[12]全日空札幌オープンでは井岡誠と共に3日目に尾崎将司吉川一雄と並んでの4位タイ[13]に着け、最終日には中村通と並んでの3位タイ[14]に入った。

1975年ゴルフダイジェストトーナメント宮本省三を破って優勝したものの、最終ラウンドでが降り、63ホール打ち切りの変則優勝であった[2]。未完の大器であった山田はこの試合でプロ入り0勝から挽回し[15]、高橋と共にシード入り[16]するが、以後は鳴かず飛ばずで、1977年はシードにもなれない始末であった[2]

1976年日本プロマッチプレーでは2回戦で尾崎将司と対戦し、アウトで尾崎から3ダウンも奪って1アップで勝利した[17]。同年の関東オープンでは、尾崎・村上隆・青木・小林富士夫菊地勝司に次ぎ、安田春雄新井規矩雄原孝男と並んでの7位タイに入った[18]

1978年には奮起し、読売ジャイアンツ多摩川自主トレに参加[2]王貞治張本勲土井正三柴田勲に交じって体力作りに励み、開幕後はその成果が徐々に現れ、札幌とうきゅうオープンでは森憲二中村通と並んでの10位タイ[19]関東プロでは青木・中嶋常幸横島由一金井清一草壁政治・尾崎・謝敏男中華民国)に次ぐと同時に竹安孝博と並んでの9位タイ[20] [21]に入る[2]

福岡を襲った水不足の中で行われたKBCオーガスタではブライアン・ジョーンズオーストラリア)ら有力選手が予選落ち[22]したが、山田は初めて4日間回っても疲れをあまり感じず、真冬のトレーニングの成果が真夏に出た形となる[2]

初日を松田敏博・吉川・菊地・小林・安田・関水利晃ベン・アルダフィリピン)、久保四郎と共に4アンダー68の5位タイ[23]でスタートし、2日目には得意のドライバーと好きなサンドウエッジが冴えて1イーグル、5バーディー、2ボギーの同年初のトップに立ち、2日連続60台となる67の好スコアで鷹巣と並んでの首位タイに躍進[24]。3日目には杉原輝雄・新井・横島・アルダ・鷹巣と共に通算10アンダー206の首位集団を作り[25]、最終日には大詰めになって11アンダーで7人が並ぶ混戦となり、鷹巣・アルダなどが躓く中を「魔の17番」でバーディーを取り[22]、18番をパーに収めて優勝を飾った[2]

山田は16番でボギーとした時点でジーン・リトラーアメリカ)、アルダ・鷹巣・久保・宮本康弘・青木と共に11アンダーで並ぶが、17番でバーディーを取った時に「勝てる」と思った[2]。プレーオフのことなどを考えず、「ただバーディーを取りたい」と念じた17番、2打のバンカー越えをサンドウエッジで80cmに寄せてバーディーとし、単独首位となる[2]。18番のティーグラウンドではが緊張から震えるが、を大量に飲んで、心を落ち着かせたのが功を奏した[2]

1978年の日本オープンでは中村・尾崎・前田新作郭吉雄(中華民国)と並んでの9位タイ[26]1979年の関東プロでは長谷川勝治・尾崎と並んでの4位タイ[27]に入った。

1979年の日本国土計画サマーズでは2日目に野口茂と共に首位呂良煥(中華民国)と1打差の2位タイ[28]に着けるが、連覇を賭けたKBCオーガスタでは初日に4オーバー76の113位と大きく出遅れ[29]、2日目には8オーバーでファジー・ゼラー(アメリカ)や村上・中嶋と共に予選落ちした[30]

1980年くずは国際では初日に67をマークして竹安・尾崎直道尾崎健夫・中嶋と並んでの3位タイ[31]でスタートし、最終日には69をマークして[32]、入江・前田と並んで横島の2位タイ[33]に入った。

ツアープロの傍らで1983年からは日本テレビ解説者としても活躍[34]するが、37歳の時にを切除して以来、テイクバックで腹直筋がスイングとの噛み合わせの邪魔をする[35]ようになり、1986年東北クラシック[36]を最後にレギュラーツアーから引退。

ツアー引退後は解説者のほか、静岡県菊川市のホロンゴルフ倶楽部を設計し[37]沖縄県宮古島市のシギラベイカントリークラブで支配人も務めた[38] [1]

肺気腫心臓弁膜症大腿部肉腫を患い、最近は肺線維症2023年には骨折している[35]

主な優勝

  • 1975年 - ゴルフダイジェストトーナメント
  • 1978年 - KBCオーガスタ

脚注

  1. ^ a b 田村亮のちょっと嬉しかったこと”. www.tamura-ryo.com. 2023年12月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 朝日新聞縮刷版p881 昭和53年8月28日朝刊19面「大器・山田やっと開花 混戦、17番で抜け初優勝
  3. ^ Untitled”. nihon-kougoren.jp. 2023年12月8日閲覧。
  4. ^ 西田升平氏が死去、日大ゴルフ部で第1期黄金時代築く - サンスポ”. www.sanspo.com. 2023年12月8日閲覧。
  5. ^ 出身プロ一覧”. www.nihon-u-golf.com/. 2023年12月8日閲覧。
  6. ^ 日本大学ゴルフ部OB会”. zz109.secure.ne.jp. 2023年12月8日閲覧。
  7. ^ Untitled”. www.golferweb.jp. 2024年2月17日閲覧。
  8. ^ a b JGA 日本ゴルフ協会”. www.jga.or.jp. 2023年12月8日閲覧。
  9. ^ 杉山通敬『中部銀次郎 新ゴルフの心』講談社2001年5月1日ISBN 4062106612、p263。
  10. ^ 府中CCの歴史”. www.fuchucc.com. 2024年12月2日閲覧。
  11. ^ 中日クラウンズ”. hicbc.com. 2023年12月8日閲覧。
  12. ^ 朝日新聞縮刷版p638 昭和49年7月20日朝刊14面「村上隆が単独首位に チャリティ・ゴルフ
  13. ^ 朝日新聞縮刷版p218 昭和49年7月7日朝刊14面「青木功トップ 札幌オープン・ゴルフ
  14. ^ 朝日新聞縮刷版p236 昭和49年7月8日朝刊8面「“燃えた”尾崎 8打差つめるバーディ攻勢 プレーオフ2度、青木を破る 札幌オープンゴルフ
  15. ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】東名カントリークラブ。中嶋常幸、4日間ツアー競技初優勝。1976年ゴルフダイジェストトーナメント”. golfdigest-play.jp. 2023年12月8日閲覧。
  16. ^ 大学ゴルフ界から新星続々 “学士プロ”のルーツをたどる”. golfdigest.co.jp. 2024年2月17日閲覧。
  17. ^ 第2回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1976年)”. www.golfdendou.jp. 2023年12月8日閲覧。
  18. ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】嵐山カントリークラブ。ジャンボ尾崎が72ホール目に放ったとどめのスーパーショット。1976年関東オープン”. golfdigest-play.jp. 2023年12月9日閲覧。
  19. ^ 毎日新聞縮刷版p565 昭和53年6月19日朝刊15面「青木、楽々逃げ切る 今季3勝目 札幌とうきゅうオープンゴルフ最終日
  20. ^ 毎日新聞縮刷版p181 昭和53年8月7日夕刊7面「乗ってる青木が逆転V 中島とらえ今季4勝目 関東プロゴルフ最終日
  21. ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】新千葉カントリー倶楽部。青木功は語る「中嶋は焦って負けた」1978年関東プロ”. golfdigest-play.jp. 2023年12月9日閲覧。
  22. ^ a b 大会の軌跡|Sansan KBCオーガスタゴルフトーナメント2023”. kbc.co.jp. 2023年12月8日閲覧。
  23. ^ 毎日新聞縮刷版p684 昭和53年8月25日朝刊16面「53人がアンダースコア KBCオーガスタゴルフ第一日
  24. ^ 毎日新聞縮刷版p720 昭和53年8月26日朝刊18面「鷹巣、一気に浮上 山田と並ぶ KBCオーガスタゴルフ第二日
  25. ^ 毎日新聞縮刷版p753 昭和53年8月27日朝刊19面「混戦、首位に6人 連続5バーディー・新井ら KBCオーガスタゴルフ第三日
  26. ^ 第43回日本オープンゴルフ選手権(1978年)”. www.golfdendou.jp. 2023年12月8日閲覧。
  27. ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】東筑波カントリークラブ。青木功は変わった。「忍耐」そして「挑戦」へ。1979年関東プロ”. golfdigest-play.jp. 2023年12月8日閲覧。
  28. ^ 朝日新聞縮刷版p131 昭和54年8月4日朝刊19面「呂良煥、首位に立つ サマーズゴルフ第二日
  29. ^ 朝日新聞縮刷版p778 昭和54年8月24日朝刊16面「草壁ら三人リード 青木62位 注目のゼラーは39位 KBCオーガスタ・ゴルフ第1日
  30. ^ 朝日新聞縮刷版p819 昭和54年8月25日朝刊17面「ゼラー不振、予選落ち 郭首位、3差で小林続く KBCオーガスタ・ゴルフ第2日
  31. ^ 毎日新聞縮刷版p418 昭和55年4月13日朝刊18面
  32. ^ 毎日新聞縮刷版p438 昭和55年4月14日朝刊14面「横島が逃げ切る
  33. ^ McCormack, Mark (1981). Dunhill World of Professional Golf 1981. Springwood Books. pp. 172, 375–376. ISBN 0862540054 
  34. ^ 第47回水町メディカルクラブゴルフコンペ”. www.mizumachi.jp. 2023年12月8日閲覧。
  35. ^ a b 【医師水町 視線の先に】ゴルフが結ぶ縁 さまざまな病いと闘い続ける山田健一プロ 76歳の復活へ気力衰えず”. www.sanspo.com. 2023年12月8日閲覧。
  36. ^ 山田 健一選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年12月8日閲覧。
  37. ^ 提携ゴルフ場のご案内|札幌カントリー倶楽部”. sapporo-country-clb.com. 2023年12月8日閲覧。
  38. ^ クラブハウス探訪”. www.golfdendou.jp. 2023年12月8日閲覧。

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