ブライアン・ジョーンズ (ゴルファー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/19 22:16 UTC 版)
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基本情報 | ||||
名前 | ブライアン・ジョーンズ | |||
生年月日 | 1951年9月12日(73歳) | |||
国籍 | ![]() |
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出身地 | オーストラリア・シドニー | |||
成績 | ||||
優勝回数 | 日本男子:11勝 | |||
初優勝 | 日本男子:KBCオーガスタ(1977) |
ブライアン・ジョーンズ(Brian Jones, 1951年9月12日 - )は、オーストラリア・シドニー出身のプロゴルファー。
来歴・人物
豪州の先輩グラハム・マーシュが日本ツアーを戦うようになった1970年代中期、マーシュに遅れること4年ほどでジョーンズも来日したが、当初は出場できる試合も少なく、日豪かけ持ちの苦しい時代が長かった[1]。
来日後は日本のゴルフ場に所属し、1976年秋には日本人女性の幸子夫人と結婚し、授かった一子と共に東京のアパートで暮らしていた[2]。
幸子夫人の内助によってゴルフを続けたが[1]、1977年のアジアサーキット・インディアンオープンでは林由一(日本)、ピーター・トムソン(オーストラリア)、ミヤ・アエ(ビルマ)を抑えて優勝[3] [4]。
1977年のKBCオーガスタでは初日29位→2日目26位[2]で迎えた3日目には68をマークして久保四郎・中村通・長谷川勝治・安田春雄と並んでの7位タイ[5]に浮上。最終日には大ギャラリーの見守る中で鈴木規夫・矢部昭とデッドヒートを繰り広げ[6]、全ホールの半分に当たる9ホールではバーディー、ボギーを2つずつで遂に首位に立つ[2]。9バーディー、2ボギーと追い上げて5バーディーの矢部と通算10アンダー278で並び、3年連続のサドンデス・プレーオフにもつれ込む[2]。プレーオフでは17番でティーショットを左へOBした矢部を見て気が楽になり、「ただ真ん中へ打とう」と慎重に打ってど真ん中、残り120mから第2打を5mに着け、楽にパーで勝負をつける[2]。国内初勝利となったほか、マーシュに続く豪州勢の大会連覇となった[2]。
初優勝してから生活も安定し、1985年からは6シーズン連続して毎年1勝以上をあげ、ランキングもトップ10に定着し、豪州のプロではなく、日本のツアープロの一人となった[1]。
1985年にはマンデートーナメントから出場した三菱ギャランで湯原信光をプレーオフの末に下し[7]、1979年のフジサンケイクラシック・佐藤正一、日本国土計画サマーズ・三上法夫に次いで3例目の本戦優勝[8] [9] [10] [11] [12]を挙げた。同年のアコムダブルスでは同じ豪州のマイク・ファーガソンとペアを組み、3日目を65で回り、通算22アンダー194で重信秀人&藤池昇ペアら4組に4打差付けて首位を守った[13]。2日目から首位を続け、最終日には17番終了時点で日本の前田新作&吉川一雄ペア、鈴木弘一&大町昭義ペア、飯合肇&東聡ペア、小林恵一&松本紀彦ペアに追いつかれたが、ファーガソンが最終ホールで5mの難しいバーディパットを沈め、4チームを振り切って優勝[14] [15]。同じペアで出場した1986年のアコムダブルスでは東&飯合ペアの2位タイ[16]に入った。
1987年の三菱ギャランでは最終日の15番で鈴木弘一を逆転して通算5アンダーで2年ぶり2度目の優勝を果たし[17]、1988年の同大会では尾崎直道と通算17アンダーで並び、プレーオフの1ホール目でバーディを奪って逆転で2連覇に成功[18]。
1988年の東海クラシックでは4人の並走でスタートした最終日に8バーディ・1ボギー65のベストスコアをマークし、家族の前で優勝[19]。
1989年には日本オープンとブリヂストンオープンで優勝寸前まで行きながら逆転される苦い経験をし、「もう優勝できないのでは…」と思ったこともあったが、その都度、日本語の「我慢」を自分に言い聞かせた[20]。
ラークカップでは3日目に6バーディー、3ボギーと波はあったものの、2日連続の69で通算8アンダー208とスコアを伸ばし、単独首位に立つ[21]。最終日は時折15m前後の強風が吹き、スタート前に「上位を狙ったあげく、風とケンカをしてスコアを崩す選手が続発するだろうから、まずフェアウェイをキープしてパーセーブ」と作戦を立てると、この読みが的中[20]。前日まで上位にいた選手が次々とショットを曲げて後退する中、クラブ選択のミスから2度ボギーを叩いた以外は直前の巧みなアプローチでのバーディーが物を言ったほか、風の強い豪州仕込みの低い球で悠々とフェアウェイを捕らえて、無理せずパーを守る[20]。ほとんどフェアウェイを外さない堅実なゴルフで2バーディー、2ボギーのパープレー[20]でしぶとく食い下がる須藤聡明[22]を抑えて優勝。
グリーンを外してもアプローチの巧さでパーをセーブし、ロングショットはさほど距離は出せないものの実にいいコントロールで、30歳も半ばを過ぎると、プレーぶりにも安定度と粘りが見られるようになる[1]。
2002年から2005年まではヨーロピアンシニアツアーに参戦し、2002年にはデ・ヴィア・ホテルズ・シニア・クラシックで優勝。
日本での成績
- 1977年 - KBCオーガスタ
- 1985年 - 三菱ギャラン、マルマンオープン
- 1986年 - ブリヂストン阿蘇オープン
- 1987年 - 三菱ギャラン
- 1988年 - 三菱ギャラン、東海クラシック
- 1989年 - ABCラークカップ
- 1990年 - 第一不動産カップ、ミズノオープン
- 1993年 - 札幌とうきゅうオープン
脚注
- ^ a b c d ブライアン・ジョーンズ選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
- ^ a b c d e f 朝日新聞縮刷版p874 昭和52年8月29日朝刊18面「ジョーンズ猛追、優勝 プレーオフ 矢部、痛恨のOB KBCオーガスタ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p115 昭和52年4月4日朝刊19面「インド・オープン最終日 ジョーンズが優勝」
- ^ “Title to Jones”. The Straits Times (Singapore): p. 27. (1977年4月5日). オリジナルの2021年9月19日時点におけるアーカイブ。 2020年3月16日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p842 昭和52年8月28日朝刊18面「混戦、鈴木・青木が並ぶ 一打差で矢部ら三人も追う KBCオーガスタ・ゴルフ」
- ^ 大会の軌跡|Sansan KBCオーガスタゴルフトーナメント2023
- ^ 1985年06月02日 三菱ギャランゴルフ最終日
- ^ 母の日の親孝行。浅地洋佑が願ってもない初V - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
- ^ マンデーから来た平本セジュン。世界の中心で何を叫ぶ?? - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
- ^ ゴルフ界の裕次郎が嵐を呼ぶ!…大堀裕次郎、史上初の選考会からメジャー優勝へ2差7位 - GOLF報知
- ^ 19歳「黄金世代」小滝水音、デビュー戦で2差2位…藍超え最速Vへ浮上 - GOLF報知
- ^ 香妻首位発進、史上5人目マンデーVだ - 国内男子ニュース
- ^ 毎日新聞縮刷版p932 昭和60年7月28日朝刊18面「★ジョーンズ組首位守る」
- ^ “Jones, Ferguson share $59,234”. The Age (1985年7月29日). 2020年11月17日閲覧。
- ^ 毎日新聞縮刷版p956 昭和60年7月29日朝刊18面「★ジョーンズ組優勝」
- ^ McCormack, Mark H. (1987). Ebel World of Professional Golf 1987. Springwood Books. pp. 271, 486–489. ISBN 0002182572
- ^ 1987年05月31日 三菱ギャランゴルフ最終日
- ^ 三菱ギャラン 1988
- ^ 1988 第19回ブライアン・ジョーンズ
- ^ a b c d 朝日新聞縮刷版p1543 平成元年10月30日朝刊23面「強風に負けずジョーンズ初V 尾崎将、連続で1億円突破 ラークカップ最終日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p1504 平成元年10月29日朝刊24面「ジョーンズ首位浮上 須藤ら2位、尾崎将13位 ラークカップ第3日」
- ^ 2006年シニアプロフィール
関連項目
外部リンク
- ブライアン・ジョーンズ - 日本ゴルフツアー機構のプロフィール
- ブライアン・ジョーンズ_(ゴルファー)のページへのリンク