小野上北斜坑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 13:05 UTC 版)
「中山トンネル (上越新幹線)」の記事における「小野上北斜坑」の解説
小野上北工区は三井建設に対して発注され、1973年(昭和48年)3月1日に着工した。小野上北工区は当初計画では大宮起点104 km610 m地点から106 km300 m地点までの1,690 mを担当することになっており、大宮起点104 km900 m地点に取り付く全長810 mの斜坑を建設することになった。中山トンネルで唯一の斜坑であり、その傾斜は14.5度である。 斜坑掘削開始当初から湧水が多く、深くなるにつれてさらに増大していった。457.8 mまで掘削した1974年(昭和49年)9月27日に切羽(トンネル工事の先端部)が崩壊し大出水事故を起こした。出水量は340 t/分にも達し、約10分間にわたって坑口から水が噴き出した。この水量は、100万人規模の都市の水道水を供給できる量である。出水事故当時先端にいた作業員は水に追われて斜坑を走って脱出することになった。また流出した水が斜坑付近にあった民家の床下浸水をもたらしている。 出水後、復旧工事を進めるとともにボーリング調査により地質を調査したところ、出水地点付近に20万立方メートルに及ぶ大滞水塊が存在することが判明した。ほとんど地中湖同然の水塊であり、その水圧が地山強度を超えたことが出水事故の原因であった。 現行ルートでの斜坑掘削継続は不可能とされたが、しかし隣接する小野上南工区も難航していたことから、双方の進捗状況を検討した上で、小野上北斜坑のルート変更を行って建設を継続する方針となった。斜坑口から188 mの位置で大宮方へ20度で分岐し、勾配18度で本坑へ到達する、分岐後の延長447 mの新斜坑の計画が決定され、1975年(昭和50年)11月に着手した。ところが新斜坑を掘るにつれて、旧斜坑の湧水量が減少してその分が新斜坑に出てくるような状態となり、再び難航するようになった。1976年(昭和51年)7月5日、新斜坑の掘削を中止し、再度検討を行った。その結果新斜坑であっても、旧斜坑の中止原因となった滞水塊の影響を受ける範囲を外れておらず危険であることがわかり、掘削を継続するためには注入作業を併用しなければならないことが判明した。一方でこの間に小野上南工区は順調に進行するようになっており、7月10日時点では工区境まで510 mのところまで来ていた。双方の進捗を考慮すると、小野上北斜坑が本坑位置に到達して本坑の掘削を開始できるよりも先に、小野上南工区からの掘削が到達すると考えられたことから、小野上北斜坑の工事継続を断念することになり、1976年(昭和51年)11月18日に契約解除となった。小野上北工区が担当するはずだった本坑の区間は、結果的に小野上南工区により建設されている。
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