小袖と枡と笠の緒文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:18 UTC 版)
「見性院 (山内一豊室)」の記事における「小袖と枡と笠の緒文」の解説
司馬遼太郎の『功名が辻』では、呉服商から唐織の端切れを買い集め、縫い合わせて作った小袖を市中で人に配り、また北政所のために縫った小袖を聚楽第に飾っていたところ、後陽成天皇から褒められた、というエピソードが出てくる。この小袖については伝承がない。恐らく、司馬は高知市民図書館蔵の『稿本見性院記』の、「夫人は長浜在城の折、唐織の巻物の小切れを集めて小袖を縫い、それが秀吉を魅了して、聚楽第に置いて人々に見せた」とある記述を元にこれを書いたと思われる。他に、枡を裏返してまな板として使ったともいわれる。この枡は、文化3年(1806年)、見性院が祭神となった藤並神社に神体として奉納されたが、第二次大戦で消失し、現在は土佐山内家宝物資料館にその複製が存在する。一方で、一豊の母法秀院も枡をまな板として利用したと言われており、法秀院が出家後寓居していた近江坂田郡宇賀野村(現在の米原市宇賀野)の長野家が所蔵している。この枡と、見性院の枡には類似性があると見られている。 詳細は「笠の緒文」を参照 他に、一豊が家康の上杉攻めに従軍していた折、千代に届いた石田三成の挙兵の知らせの書状に加え、家康に忠誠を誓うように促した手紙をしたためて文箱に入れ、田中孫作を通じて一豊に届けさせた。また別に、文箱の文を開封せず家康に届けるようにとの手紙を観世縒りにして、孫作の笠の緒に縒り込んで届けさせている。この機転により、家康は三成の挙兵を知ることができ、また、見性院の手紙は陣中を活気づけた。この密書の通り、一豊は文箱の封を解かずそのまま家康に届けさせ、これに気をよくした家康が、関ヶ原で目ぼしい働きがなかったにもかかわらず、一豊を土佐一国の主にしたともいわれる。
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