小萩観音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:54 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 表示 十一面観音で、仙台三十三観音第11番札所本尊となっている。平安時代末期から鎌倉時代に生きた石塚民部守時の妻「小萩」の念持仏とされるためこの名があり、行基の作と伝承されている。 守時は奥州藤原氏一族の藤原忠衡の家来で、1189年(文治5年)の奥州合戦の際に忠衡の女児を源頼朝軍からかくまって、夫婦とも陸奥国賀美郡清水村(現・宮城県加美郡色麻町清水)の清水寺(北緯38度33分51.7秒 東経140度48分49.6秒 / 北緯38.564361度 東経140.813778度 / 38.564361; 140.813778 (清水寺))にいる弟の観円のもとに移り出家した。1205年(元久2年)、守時の故郷である陸奥国宮城郡小田原村福沢(現・宮城県仙台市青葉区宮町4丁目)に移り、福澤明神(現・福澤神社。地図)に観音像を納めた。女児および守時が死んだ後、小萩は福澤明神の宮守をしながら観音堂を建て、2人の冥福を祈った。 1264年(文永元年)に天神社(長命坂天神、長命荘天満宮。地図)が創建されると、いつの時期かに小萩観音が天神社へと遷された。 天神社は1611年(慶長16年)に玉田崎へ遷宮し、1649年(慶安2年)に仙台東照宮の普請に伴ってやや東に移動させられ、1667年(寛文7年)にはさらに榴ヶ岡に遷されて天満天神宮(現・榴岡天満宮)となったが、これに合わせて小萩観音も移転し、天満宮の別当寺「萩徳山仏生寺」となった。 明治維新期に仏生寺は廃寺となり、小萩観音は一時、商家の所有となっていたが当院が譲り受けた。近年、ログハウスの観音堂が新築された。
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