寺内町としての金森とは? わかりやすく解説

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寺内町としての金森

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:00 UTC 版)

金森 (守山市)」の記事における「寺内町としての金森」の解説

14世紀金森支配していた川那辺厚春が本願寺五代目法主綽如帰依し金森天台宗から浄土真宗信仰基軸大きく変えていった。その子那辺在貞の時代には金森惣道場開かれるにいたり、さらにその子那辺矩厚は、存如帰依し道西名乗るようになった金森惣道場金森御坊)を中心として民家環濠取り囲んだ寺内町形成されたのは、この道西の時代であると考えられている。江戸時代の「金森地図」(金森御堂保存)には周囲に濠を巡らし土居築いた跡が見られることから、金森宗教的性格防御城郭機能をあわせもった寺内町初期的形態である、ということができる。現在も周辺には濠跡とともに大門や城ノ下などの地名残されている。当時二百軒を越え集落であった寛正6年1465年)、比叡山僧兵による「寛正破却」によって大谷の地を追われ本願寺派指導者蓮如は、高弟であった道西のもとに身を寄せた。さらに、付近門徒衆を結集し比叡山山徒衆に反抗。これを金森合戦といい、史上初めての一向一揆である。文正元年1466年11月には「報恩講」を勤修した。蓮如文明元年1469年)には対岸堅田移動したが、金森本願寺派中心地として栄え金森御坊中心とする計画都市形成された。 後に飛騨国高山城主となる金森長近天文10年1541年)までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し金森名乗っている。 戦国時代には、近在である三宅蓮正寺連携したとしての機能整えられ湖南地域一向宗徒の拠点となっていた。金森一向宗徒は、織田信長近江入国比叡山焼き討ち直前に、元亀2年1571年6月から9月にかけて反抗した金森には近在々から一向宗徒が集結したが、石部常楽寺本陣構えた信長配下佐久間信盛によって攻められ比叡山焼き討ち優先した信長一時人質交換して和睦した。しかし、翌元亀3年1572年)には信長近在の百を越え々が「金森三宅への出入荷担をしないよう」という起請文をとられ、町域はいったん荒廃しかけた。しかし同年信長によって楽市・楽座制札与えられ以後宿駅市場二つ性格を持つ集落となったその後江戸時代に、琵琶湖渡航の主要港矢橋港になると志那街道役割薄れ金森衰えた

※この「寺内町としての金森」の解説は、「金森 (守山市)」の解説の一部です。
「寺内町としての金森」を含む「金森 (守山市)」の記事については、「金森 (守山市)」の概要を参照ください。

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