毛利元秋
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月山富田城下にある元秋の墓所
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文21年(1552年) |
死没 | 天正13年5月3日(1585年5月31日) |
改名 | 椙杜元秋→毛利元秋(富田元秋) |
別名 | 通称:少輔十郎 |
戒名 | 三光院殿前雲州太守英巖宗照大居士 |
墓所 | 宗松寺跡(島根県安来市広瀬町富田) |
官位 | 刑部大輔 |
主君 | 毛利輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏→三善姓椙杜氏→毛利氏、富田氏 |
父母 | 父:毛利元就、母:三吉氏 養父:椙杜隆康 |
兄弟 | 見室了性、毛利隆元、五龍局(宍戸隆家正室)、吉川元春、小早川隆景、三女、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、芳林春香(上原元将正室)、小早川秀包 |
妻 | 三沢為清の娘 |
子 | 千満丸、梅仙院 |
特記 事項 |
二宮就辰や井上就勝を毛利元就の落胤とする説があり、それに従うと両名は元秋の異母兄にあたる。 |
毛利 元秋(もうり もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の一門。毛利元就の五男。通称は少輔十郎。官途は刑部大輔。
生涯
幼少期
天文21年(1552年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の五男として誕生した。母親は備後国の国人・三吉氏の出身で元就の継室である三吉氏。
毛利元就の正室・妙玖の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の異母兄達が元就から大切にされたのに対して、四男・穂井田元清以降の継室の子達は、弘治3年(1557年)11月25日に元就が記した三子教訓状において「虫けらなるような子どもたち」と表現されているが、三子教訓状が書かれた時点で生まれていた元就の庶子は、当時7歳の四男・元清、6歳の五男・元秋、3歳の六男・元倶の3人でいずれも幼少であり、三子教訓状では「もしこの中で賢く成人する者があったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境などにでも置いてほしい」とも依頼している[1]ため、必ずしも粗略に扱われたわけではない。一方で「しかし大抵は魯鈍で無力な者であろうから、その場合はどのように処置をされても異存は無い」とも述べており[1]、そこには正室の子と継室の子を明確に分ける元就の意図が読み取れる。
具体的な時期は不明だが、天文24年(1555年)10月から始まる毛利氏の防長経略で大きな戦功を挙げた周防国国人・椙杜隆康に実子が無かったため、父・元就の命によって元秋は隆康の養子となった。
月山富田城在番
永禄9年(1566年)に月山富田城の尼子義久が毛利氏に降伏すると、月山富田城には福原貞俊や口羽通良ら毛利の重臣が在番していたが、福原貞俊や口羽通良をいつまでも在番させるわけにはいかなかったため、元就は豊前国京都郡の松山城の城将を務めていた天野隆重を月山富田城の城将に起用した。隆重はその責任の重大さから固辞し、城将を元秋として自分はその補佐役を務めることを願い出た。しかし、元秋がまだ15歳であったことから、元就はあくまで隆重が城将を務めるように説得したため、隆重は3つの条件を提示して容認されたことで城将を引き受けた[注釈 1]。
永禄10年(1567年)2月9日、曲直瀬道三が出雲国に在陣する毛利元就、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、元秋に対し、漢籍を交えての9ヶ条の意見書を提出した[2]。なお、この時の意見書の宛先において、元秋は「椙杜元秋公」と記されていることから、この時点ではまだ「椙杜」の名字を名乗っていたことが分かる。
永禄11年(1568年)6月10日、元秋は月山富田城への在番を申し付けられ、出雲国に3500貫を与えられた[注釈 2][4]。同年6月12日には輝元に対し起請文を提出し、毛利氏への忠誠と一層の努力を誓うと共に、輝元が元秋に対して憐愍を垂れるよう要請した[5]。しかし、間もなく毛利氏は九州に出陣(立花城の戦い、多々良浜の戦い)することとなったため、元秋の月山富田城への入城は延期されることとなる。
永禄12年(1569年)10月5日、大友氏との戦いのために長門国の長府に在陣する毛利元就は、厳島神社の神官・棚守房顕に元就、吉川元春、小早川隆景、元秋、吉川元資(後の吉川元長)の毛利一門の5人や安芸・備後・石見の国人達の息災延命や武運長久等の祈願を依頼し、大友氏との戦いから凱旋した後に厳島神社の玉殿と宝殿の改築などを行うことを誓約した[注釈 3][6]。
毛利氏が九州へ出陣した隙をついて、永禄12年(1569年)から翌年にかけて、出雲奪還と尼子家再興を狙う山中幸盛・尼子勝久らによる出雲侵攻や、大内輝弘の乱が起こる。尼子軍に攻められた月山富田城の天野隆重は兵数の少なさを勘案し、永禄12年(1569年)11月3日に長門国の長府に在陣している小早川隆景へ救援を要請した上で月山富田城に籠城し、尼子再興軍に抵抗した。同年10月25日に既に大内輝弘を討っていた輝元らは直ちに安芸国へ帰還し、永禄13年(1570年)1月6日に輝元を総大将として出雲へ出陣。元秋も輝元に従って月山富田城を救援し、毛利軍は逆襲に転じて尼子再興軍を打ち破った。これによって、元秋は月山富田城の城将を命じられた。なお、月山富田城将となったことで椙杜家との養子縁組を解消し、毛利元秋または在名から富田元秋と名乗ったとされる。
織田氏との戦い
天正6年(1578年)2月に播磨の別所長治が毛利氏に服属したため、吉川元春と小早川隆景が先鋒として播磨へ出陣する。元秋は元春の軍に属して従軍し[注釈 4]、上月城の戦いに参加した。
天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉が備中国へ進攻して冠山城や宮路山城を攻撃すると、山陽側の国人達を率いる小早川隆景の軍は備中国の幸山城や福山城に布陣し、毛利輝元が率いる本軍や、山陰側の国人達を率いる吉川元春の軍も羽柴軍との合戦のために陣を移した[7]。さらに、在国していた国人達(分国衆)にも出陣が命じられ、山陰の北前衆も元秋や杉原元盛らを伯耆国の押さえとして残し、それ以外は南方への出陣が命じられたことが同年4月24日に吉川元長が吉川経安に宛てた書状に記されている[7]。
天正13年(1585年)5月3日に月山富田城において34歳で病死した。墓所は月山富田城近くの宗松寺跡。
没後
元秋が死去すると元秋の同母弟である元康が元秋の家督と所領を継ぐこと申し出て、輝元は元秋の子である千満丸がいることを理由に許容しなかったが、その後間もなく千満丸が疱瘡で死去したため、同年11月頃には元康に相続を命じた[8]。この時、元康はそれまで有していた所領を保持したまま元秋の旧領を相続することを輝元に求めた[9]が、輝元はそれを認めず、元秋旧領の相続に伴って元康がそれまで保持していた所領は召し上げられることになったため、同年11月8日に元康は異母兄の穂井田元清が安芸桜尾城を保持したまま備中猿掛城を与えられた例を挙げて輝元に直接抗議文を送りつけ[10][11]、11月16日には妙寿寺周泉にも取り成しを依頼する書状を送っている[12]。
その後、元康自身の旧領保持が認められたかは不明だが、同年12月までに元康が家督の継承を決めており、12月3日に輝元から家督相続を認められ[13]、翌天正14年(1586年)1月11日に月山富田城へと入城して元秋の権限を継承していった[10]。
元秋の子女
元秋の男子には、庶子である千満丸がいる。『閥閲録』巻57「蜷川権左衛門」に収められた蜷川家の家譜において、元秋付きの家臣であった蜷川秋秀の事績の中でその存在が記されており、天正13年(1585年)に元秋が死去すると、蜷川秋秀は元秋の庶子に千満丸がいることを毛利輝元に言上して赤川就武と共に千満丸付きの家臣となったが、千満丸は3歳の時に疱瘡で死去したと記されている。
一方で元秋には女子もおり、『近世防長諸家系図綜覧』掲載の厚狭毛利家の系図にも記録が残っているが、病人であったために嫁がず、従兄弟にあたる毛利元宣を養育したとされている。母親及び本名は不明であるが法名は「梅仙院雪窓妙好」とし、万治2年12月4日(1660年1月16日)に死去し、養育した元宣らと同じ長門国厚狭郡宝珠山に葬られた。
なお、同系図には、元秋の妻にあたる三沢為清の娘や庶子の千満丸に関する記述はない。
家臣
- 蜷川秋秀
- 赤川就武
脚注
注釈
- ^ 天野隆重が提示した3条件は以下の通り。①月山富田城の城中や国中への聞こえもあるので、元就の旗本1人を目代として派遣すること。 ②月山富田城中や城下、外郭に至るまで修復を行う必要があるため、修復の普請を担当する者を1人派遣すること。 ③尼子氏に背いて毛利氏に降伏した者に堪忍料を支給する者を1人派遣すること。
以上の条件を容認した元就は、目代には出雲国森山城の城将である長屋小二郎、普請担当者には進藤豊後守、堪忍料勘渡者には野村士悦を派遣した。 - ^ 永禄12年(1569年)12月19日の元就と輝元の連署状によれば、出雲国能義郡の富田庄700貫、山佐300貫、今津中洲300貫、松井下坂300貫、飯生実松300貫、田頼150貫、坂田300貫、日白50貫、赤江100貫、安田250貫、荒島300貫、意宇郡の揖屋150貫、秋鹿郡の佐陀福頼分350貫を与えられている[3]。
- ^ 毛利元就が厳島神社の改築を行って神威の維持に努めようとしていた要因として、永禄12年(1569年)1月に和智誠春・柚谷元家兄弟が厳島神社の神殿において誅殺された際の流血の穢れや、仁治2年(1241年)に再建されて以降長い年月を経たことにより雨露の被害が甚大であったこと等があるが、尼子氏や大友氏との戦いで多忙であったことからなかなか改築に着手できていなかった[6]。
- ^ この時、元春の軍には吉川元長、仁保元棟(後の繁沢元氏)、吉川経言(後の吉川広家)、毛利元秋、末次元康、益田元祥、山内隆通、三刀屋久扶、波根泰次など山陰の諸氏1万5000余が加わり出雲国富田から出陣。隆景の軍には穂井田元清、天野元政、宍戸隆家、三吉隆亮、平賀元相など山陽の諸氏2万余が加わり安芸国沼田を出陣した。
出典
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 283.
- ^ 『毛利家文書』第864号、永禄10年(1567年)2月9日付け、毛利元就公・同輝元公・小早川隆景公・吉川元春公・椙杜元秋公宛て、(曲直瀬)洛下雖知苦斎道三意見書。
- ^ 『閥閲録』巻3「毛利大藏」第2号、永禄11年(1568年)12月19日付け、少輔十郎(毛利元秋)殿宛て、(毛利)輝元・(毛利)元就連署状。
- ^ 『閥閲録』巻3「毛利大藏」第1号、永禄11年(1568年)6月10日付け、少輔十郎(毛利元秋)殿宛て、(毛利)輝元・(毛利)元就連署状。
- ^ 『毛利家文書』第323号、永禄11年(1568年)6月12日付け、(毛利)輝元様宛て、(毛利)少輔十郎元秋起請文。
- ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 31.
- ^ a b 『石見吉川家文書』第98号、天正10年(1582年)比定4月24日付け、(吉川)経安宛て、治部元長(吉川治部少輔元長)返書。
- ^ 『吉川家文書』第1187号、天正13年(1585年)比定11月6日付け、(小早川)隆景宛て、(毛利)右馬頭輝元返書。
- ^ 石畑匡基 2019, p. 57.
- ^ a b 石畑匡基 2019, p. 58.
- ^ 『毛利家文書』第1268号、天正13年(1585年)比定11月8日付け、上様(毛利輝元)宛て、兵太元康(毛利兵部太輔元康)書状。
- ^ 『毛利家文書』第1269号、天正13年(1585年)比定11月16日付け、妙さま(妙寿寺周泉)宛て、七元康(毛利少輔七郎元康)書状。
- ^ 『閥閲録』巻3「毛利大藏」第3号、天正13年(1585年)比定12月3日付け、(毛利)元康御宿所宛て、(毛利)輝元書状。
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-3 毛利家文書之三』東京帝国大学、1922年12月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第9-2 吉川家文書之二』東京帝国大学、1926年9月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第9別集 吉川家文書別集(付:石見吉川家文書)』東京帝国大学、1932年5月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。
OCLC 703821998。全国書誌番号:
73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:
82051060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号: 21490091。
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月、243-286頁。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 石畑匡基「戦国期における毛利氏の出雲支配と毛利元康」日本歴史学会編『日本歴史』第857号、吉川弘文館、2019年10月、46-62頁。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻3「毛利大蔵」、巻57「蜷川権左衛門」
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