宿としての玉置神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 20:05 UTC 版)
修験道においては、山林中を自らの足で歩いて修行する抖擻(とそう)によって廻峯行を行なう山岳修行が重視されていた。峯中路には宿(しゅく)と呼ばれる霊地ないし行所が設けられた。宿は神霊や祖霊を迎える場所としての意味があるが、実際にはやや異なる機能を持った2種に分化している。ひとつは、修法・勤行の場としての宿であり、もうひとつは参籠(宿泊)の施設となる宿であって、前者には小祠堂や大樹・巨岩など自然崇拝物が、後者には神社・寺院が多用され、玉置神社は後者にあたる。しかし、近世以降、山岳修行が低調となるにつれて宿の語は用いられなくなり、かわって靡(なびき)と呼ばれるようになった。今日、大峯奥駈道の峯中路で寺社殿と宿坊が残るのは2箇所しかない。 鎌倉時代の寺社縁起『諸山縁起』には玉置山について、峯の名を「阿弥陀如来嶺」とし、宿としては「玉木宿」に比定し、大峯八大金剛童子のひとつで阿弥陀如来を本地仏とする悪除童子の居所としている。ほぼ同時代の『大菩提山等縁起』では玉木を毘盧遮那宿、宝冠の森(後述)を阿弥陀嶽と呼んで宇河宿に比定し、大峯の峯中路の中での位置が示されている。文明18年(1486年)の年号が記され、元文2年(1737年)に書写された『大峯秘所記并縁起』には、玉木(玉置)の名の由来である如意宝珠を役行者の縁起譚と関連付けているほか、大日如来との関係、大日堂の存在などが語られており、玉置神社を中心として周辺の諸霊場や宝冠の森(後述)をも併せた総合的な行所であったと考えられている。こうした諸記録から、中世に大峯奥駈が盛んになるに従って宿が整備されていった状況を知ることができる。 しかし、近世に大峯奥駈の形骸化が進むにつれ、信仰のあり方は変わった。金剛童子、大日堂、不動堂といった堂舎は依然存続したものの、大日如来は信仰の中心ではなく、阿弥陀如来は顧みられず、かわって国之常立(地蔵菩薩)・伊弉諾尊(千手観音)・伊弉冊尊(毘沙門天)の玉置三所権現が中心となり、社地も今日の境内に相当する範囲に退転した。
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