定点観測船-巡視船
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「竹生 (海防艦)」の記事における「定点観測船-巡視船」の解説
1947年(昭和22年)12月26日、竹生は運輸省へ移管され、中央気象台の定点観測船となり竹生丸(ちくぶまる)と命名され、定点観測に従事した。 1954年(昭和29年)1月1日、海上保安庁に編入され巡視船あつみ (PL-103)となり、第三管区海上保安部横浜海上保安部に配属。おじか (PL-102)と交代で定点観測に従事した。 1961年(昭和36年)10月9日、台風による荒天で北大東島北東海岸にアメリカ貨物船「パイオニア・ミューズ」(SS Pioneer Muse、9,216トン)が座礁したため、アメリカ軍の強襲揚陸艦プリンストン(USS Princeton, LPH-5)と共に救助作業にあたった。 1962年(昭和37年)4月10日、後継ののじま (PL-11)の就役に伴い退役し解体された。あつみはおじか型で最も早く退役した巡視船となった。
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定点観測船-巡視船
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「鵜来 (海防艦)」の記事における「定点観測船-巡視船」の解説
1947年(昭和22年)12月26日、運輸省へ移管され、中央気象台の定点観測船となり鵜来丸(うくるまる)と命名。この任務に3隻(鵜来、竹生、生名)が投入された。 鵜来丸は、三陸東方沖の北方定点で1948年から1953年にかけて26航海を、四国南方沖の南方定点で1949年から1953年にかけて15航海を行い、定点観測に従事した。 1954年(昭和29年)1月1日、海上保安庁に編入され巡視船さつま (PL-104)となり、第七管区鹿児島海上保安部に配属された。さつまは四国南方沖の南方定点で1955年に1航海を行い、定点観測に従事した。 1957年4月21日、鹿児島沖にて第一次南極観測を終え帰国途中の宗谷を出迎えた。その様子が記録映画「日本南極地域観測隊の記録 南極大陸」に描かれている。 1961年5月1日、九州沖で第五次南極観測を終え帰国途中の宗谷を出迎えた。そのさい南極の氷が入った木箱を2つ受け取った。 1962年1月1日、第七管区海上保安部の分割に伴い、鹿児島海上保安部は第十管区海上保安部に移管。 1965年11月24日、第一管区釧路海上保安部のつがる (PL-105)が第十管区鹿児島海上保安部へ移籍することに伴い海上保安庁を解役された。つがるの転属により、その代船として第一管区釧路海上保安部にはえりも (PL-13)が配属された。
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定点観測船-巡視船
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「生名 (海防艦)」の記事における「定点観測船-巡視船」の解説
1947年12月26日、生名は運輸省へ移管され、中央気象台の定点観測船となり生名丸(いくなまる)と命名。 1954年1月1日、海上保安庁に編入され巡視船おじか (PL-102)となり、第二管区海上保安部塩窯海上保安部に配属。あつみ (PL-103)と交代で定点観測に従事した。 1956年8月、火災事故により損傷したため、船橋構造物を一新する改装を受けた。 1963年5月25日、後継のおじか (PL-12)の就役に伴い海上保安庁を解役され、解体された。
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