官軍の反攻とは? わかりやすく解説

官軍の反攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)

源頼義」の記事における「官軍の反攻」の解説

8月17日官軍安倍軍の拠点一つである小松柵へと到達した。この柵は貞任叔父である安倍良照と弟の安倍宗任が守将として籠っており、はじめ官軍慎重に柵の攻略進めようとしていた。しかし、図らずも接敵してしまったために戦闘おこなわれる事となった(小松柵の戦い)。頼義は「攻撃明日のつもりであったが、今既に戦い始まってしまった。しかし戦というものは好機が来たら始めるものであって吉凶占い日時選んで行うものではない。まさに今がその時だ」と意気込み武則も「今の官軍勢い侵略する水火如くです。これ以上開戦機会はありません」と同調した小松柵は南を激流、北を断崖挟まれ難攻の柵であったが、官軍の将である深江是則大伴員季らおよそ20名の兵が断崖よじ登り、柵内に乱入したため安倍軍は大混乱陥ったという。守将の宗任は800騎を率いて柵外へ打って出て、その奮戦著しいものであったが、頼義は直属部将である平真平、菅原行基、源真清刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、孝忠、源親季、藤原時経丸子弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安部師方らを差し向け安倍軍に攻勢をかけると、さしもの宗任も敗れて小松柵を放棄して落ち延びた新制官軍初戦勝利で飾る事となった。 小松柵の戦い勝利を収めた官軍ではあったが、折から長雨徒に数日を過ごさざるをえず、やがて兵糧欠乏するような状況となった。これを聞きつけた貞任官軍本陣への奇襲図り9月5日官軍本陣のある営岡へ8000精兵率いて攻め寄せた。この時、頼義の傍に侍っていた武則戦勝祝い言葉述べた。この言葉に頼義が訝しむと、武則は「地の利の無い官軍これ以上六郡を深く進軍しても被害大きくするだけです。そんな中安倍軍が自ら我ら前に飛び込んで来てくれたのです。これは賊軍討ち果たす絶好機会と言えるでしょう」と答えた。これを聞いた頼義は尤もな事であるとして、四方隙の無い「常山勢の陣」を敷くと安倍軍を迎撃した。官軍安倍軍の戦いはおよそ6時間続く激戦となったが、息子である義家と義綱の活躍もあって、ついに安倍軍は敗走始めた。頼義は武則貞任追撃命じると、自身官軍将兵労り、また負傷者厚く気遣ったといわれる。この頼義の振る舞い将兵はみな感激し、「我らの命はこの御恩為に使いたいものだ。武者の命は義理前にあっては軽いものであるから、今、将軍為に死んだとしても何ら恨むことはない。かつて唐の太宗が自らの髭を焼いて、傷ついた将兵の膿を啜ったという話があるが、我ら将軍気遣いそれ以上ではないかと言い合った

※この「官軍の反攻」の解説は、「源頼義」の解説の一部です。
「官軍の反攻」を含む「源頼義」の記事については、「源頼義」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「官軍の反攻」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「官軍の反攻」の関連用語

1
4% |||||

官軍の反攻のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



官軍の反攻のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの源頼義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS