官人永業田・職分田・公廨田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:17 UTC 版)
「均田制」の記事における「官人永業田・職分田・公廨田」の解説
官人永業田は隋に始まり、官品に応じて給付される。隋代では最高が100頃、少ないもので40畝とある。唐制は最高が100頃から最低で40頃とある。いずれも永業田であり、世襲と自由な処分が可能である。 これに対して職分田(職田)の起源は北魏にある。職分田は前述の通りその官職にある間だけ給付されるものであり、そこから得られる収穫がその職の給料の一部と成り、その職から離れた時に返還する。当然、自由な処分は不可であり、その経営の仕方も決められたものであった。北魏の職分田に付いては『魏書』中にそれを示したと思われる条文が二種類あり、一つは最高の刺史で15頃とあり、もう一つは全て1頃となっている。これに付いて堀敏一は前者が全国的な官に付いてのものであり、後者は京官(中央官僚)に付いてのものとする。職分田はその職の任地に近い土地が与えられる名目になっており、数の多い中央官僚に与えられる土地は少ないものとなる。北魏に於いては官僚の官品による差異は無かったが、北斉に於いては官品に応じて差が付けられたと考えられる(具体的額に付いては不明)。隋に於ける職分田は最高の一品で5頃、品ごとに50畝の差が付けられ、最低の九品で1頃となる。唐では最高の一品で12頃、最低の九品で2頃となる。 公廨田は隋の開皇十四年(594年)に初めて登場する。公廨田は各官庁の費用を購うための土地である。 公廨田、職分田共に農民から耕作希望者を募って一定額を納めさせ、余剰が農民の収入となるという名目になっていたが、実際には強制的なものとなっており、一種の役的性格を持つものであったらしい。しかしこの役の負担に加え、職分田の存在自体が農民に負担を与えるものとなっていた。職分田は任地付近に土地が与えられることになっていたために首都周辺にそれら公田が集中することになる。しかし隋から唐までの首都であった長安は人口に対して極端に耕作地の少ない狭郷(給付の項を参照)であったため、職分田の存在が農民たちの生活を圧迫することになった。そのため何度となく改廃が繰り返されることになる。 なお、均田制は全ての人に均一に田畑を分け与える制度ではなく、身分秩序に基づいた階層的な土地制度であった。そのため、王公や官人が官人永業田などを所有することで白丁と格差が生じる事は、均田法に反するものではなかった。
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