官人滋野氏
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家訳の子滋野貞主は学者・政治家として知られ、娘の縄子を仁明天皇に、奥子を文徳天皇に入内させ、縄子は本康親王を、奥子は惟彦親王を産んだ。最後は正四位下で相模守を兼ねた。弟の滋野貞雄も娘の岑子を文徳天皇に入内させ、二皇子二皇女をもうけ、最後は従四位上となっている。 貞観10年(868年)滋野恒蔭が信濃介に任ぜられ、滋野善根も貞観12年(870年)に信濃守に任ぜられ、滋野一族と信濃の関係が生じる。恒蔭は貞主の嫡孫、善根は貞主の次男ではないかと考えられている。寛弘6年(1009年)には大外記の滋野善言が信濃からの貢馬を司っている。丸島和洋は、信濃国司を歴任した滋野氏が信濃の馬産地と深い関わりを持っており、それを管理していた古代豪族の望月・禰津・海野の三氏と滋野氏が姻戚関係を結び、貴種である滋野氏の姓を称するようになったのではないかと見ている。 以降は目立った滋野姓の官人は出ていないが、外記日記などに滋野姓を名乗るものが記載されている。
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