学生運動時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 23:21 UTC 版)
静岡県立沼津東高等学校を経て1958年東京大学に進学。60年安保闘争への関与から医学部進級試験に不合格・退学処分を受けるが翌年復学して進級。1962年の大学管理法反対闘争では自治会中央委員会議長として闘争を指揮したため再度の退学処分となる。このときともに退学処分となった1人に江田五月がいた。後に2度目の復学。この時期は共産同ML派の幹部であった。 東大紛争については卒業を控えていたこともあり、当初は積極的な関与を控えるつもりでいたが、紛争の発端が医学部(青医連処分)であったことと、学部生の中では最年長だったことから、最終的には中枢に近い立場になる。安田講堂攻防戦では、安田講堂防衛隊長に指名された。全共闘議長の山本義隆は、機動隊導入の直前に逮捕状が出たことと、機動隊導入後の組織防衛の観点から、東大構内から去ることとなった(本人は残留を希望していた)ため、今井が事実上学生側の現場責任者となった。全共闘が安田講堂の放送設備を使って行った、いわゆる時計台放送の最後のメッセージ: 「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」 は今井によるものとも言われるが、これについては明確な証言はない(生前の今井も特に言及していない)。機動隊による封鎖解除に伴い逮捕され、約1年間東京拘置所に勾留された。その後3度目の復学をして、1970年に卒業、医師国家試験に合格する。
※この「学生運動時代」の解説は、「今井澄」の解説の一部です。
「学生運動時代」を含む「今井澄」の記事については、「今井澄」の概要を参照ください。
- 学生運動時代のページへのリンク