子供時代・青年時代:1899年-1930年
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「ザキー・アル=アルスーズィー」の記事における「子供時代・青年時代:1899年-1930年」の解説
アルスーズィーは、1900年にオスマン帝国支配下のラタキアのアラウィー派の中流家庭に生まれた。母親のマリヤムが著名な宗教一家の出身である一方で、父親のナジーブは弁護士だった。2人の兄と2人の姉がいた。1904年に一家でアンティオキアに移住した。その頃、クッターブ(初等教育機関)で学び始め、コーランを記憶した。4年後、両親は彼にオスマン帝国内の正統な教育を受けさせるためにRüşdiye(中等学校)に入学させた。1915年、彼の父は民族主義的な活動をしたとして、オスマン帝国当局によって逮捕された。アルスーズィーは後にアラブ・ナショナリズムに関心を抱くきっかけになった出来事であったと回想していた。彼の父が短期間投獄された後、一家はコンヤの街に移住させられた。1年後、アンティオキアに戻ることが許された。アルスーズィーによると、彼の父は、ファイサル1世がダマスカス入りしたというニュースを聞いて、アンタキアの政府庁舎のオスマン帝国旗をハーシム家の旗に取り替えた。 第一次世界大戦後、アルスーズィーはレバノンの在俗会(Institut Laïc)で学び始めた。そこで哲学に触れると共に、フランス語の語学力を極めた。一方で無神論者として煙たがられた。彼はしばしば、「神の子より地上の我々のほうがよほど様々な問題を解決できる」と言っていた。修了後、アンティオキアの中等学校の数学教師の職を得たが、その後アルスーズ学区を統率する職に就き、1924年から1926年まで務めた。1927年、フランス高等弁務事務所から奨学金を得てソルボンヌ大学(パリ大学)に留学した。1930年まで留学していたが、学位を得ることは無かった。留学中、前植民地行政官ジャン・ガルミエと親交を結んだ。ソルボンヌでは19世紀のヨーロッパ哲学に魅せられ、ジョルジュ・デュマ、エミール・ブレイエ、レオン・ブランシュヴィック(彼の指導教授)、アンリ・ベルクソン、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテなどの哲学に関心を持った。最も影響を受けた書籍は、ベルクソンの『創造的進化』(L'Evolution créatrice)、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)であった。思想家の中ではフィヒテに最も共感していた。
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