妥協としての宥和政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 17:42 UTC 版)
「グレゴワール・カイバンダ」の記事における「妥協としての宥和政策」の解説
独立後、カイバンダは「割り当て制度」の導入を支持した。割り当て制度とは、フツ対ツチの人口比に応じて、政府・高等学校・高等教育機関においてポスト・学生数の構成比を固定する制度のことである。この制度の導入によって、公式上の数字としては、ツチは政府・高等学校・高等教育機関において10から20%程度に制限された。ただ、割り当て制度は、カイバンダ政権だけでなくその後のハビャリマナ政権でも維持されたが、実際には遵守されていなかった。1970年代初頭の例で言うと、高校や大学での教師・学生の約半数はツチだった。1960年代中期から後半の数字では、大学生の90%近くがツチだった。そのほかでは、カトリックの司祭はツチの割合が圧倒的に高かったし、私企業においても、ツチの成功者が多かった。しかし、この制度によって、高等教育を受けられるようになったフツの数が急増したことは確かである。皮肉なことに、フツの学生が急増したことが後年かえってカイバンダの政治的安定を損なわせる原因になった。 1963年のブゲセラ侵攻以前まで、カイバンダがツチに対して比較的宥和的だったことは事実である。たとえば、1960年の地方選挙でパルメフツは大勝したにも関わらず、ツチを入閣させた。ツチを入閣させた理由は、1962年2月8日に国連の仲介で結ばれたニューヨーク協定によって、ルワンダ国民連合(Union Nationale Rwandaise、略称はUNAR)に対して閣僚ポストを2つ用意することが約束されたからである。ツチの閣僚は保健相と牧畜相として入閣した。しかし、これは独立後の移行期間における飴と鞭の政策の一環であり、最終的な目標はパルメフツによる支配にあった。パルメフツはあらゆる手段を使って地歩を固めていった。
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