奥地移転後の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 06:15 UTC 版)
漢口・南昌を失った中ソ連合航空隊は、中国奥地の四川省(重慶・成都・梁山)や甘粛省(蘭州)へ基地を移した。航続距離の短い日本軍の戦闘機(九六式戦・九七式戦)では、このような奥地までは侵入できなかった。また、初歩的な早期警戒網も作られ、これまでのように不意打ちを受けることはなくなった。1939年以降、日本軍は中国奥地への爆撃を強化した。1939年2月、日本陸軍は対中軍事援助の中枢基地である蘭州爆撃にイ式重爆撃機を投入したが、中ソ連合航空隊の迎撃によって5回の出撃でそのほとんどの機体を消耗してしまった。 10月3日、クリシェンコ(G.A.Kulishenko)の率いる9機のDB-3爆撃機が、漢口飛行場を奇襲爆撃した(日本側はSBと認識)。飛行場への被害はわずかであったが、一弾が第一連合航空隊幹部の集まっている所へ落下したため、塚原二四三司令官が重傷を負うなど人員の多くが死傷した。10月14日には、再び漢口基地への爆撃が行われ、飛行場に置かれていた50~60機が破壊されるという被害を受けた(漢口空襲)。 同年12月、日本軍は援蒋ルート(仏印ルート)を遮断するため広西省の南寧を占領し、奥地の補給路を爆撃するための基地を設置した。南寧の奪回攻勢を行う中国軍地上部隊を援護するため中ソ連合航空隊が出撃し、広西省南部で激しい空中戦が行われた。これらの戦いで中国空軍は戦力を消耗したため、1940年以降のソ連志願隊は中国空軍への協力と四川防空が主要任務となった。5月から9月まで日本軍は重慶・成都を爆撃し(百一号作戦)、中ソ航空隊は迎撃戦で16機を撃墜したとしている。 40年秋、日本海軍は最新型の零式艦上戦闘機を投入し、重慶爆撃を行う中攻隊の護衛に使用していた。9月13日、13機の零戦と中国空軍のI-152、I-16計27機が戦い、中国側が惨敗を喫した。その後、中国はソ連からI-153戦闘機を93機送られたが零戦の敵ではなく、被害は増大した。こうして中国空軍は戦闘を避けざるを得なくなった。零戦の登場とソ連の支援終結は中国空軍に「暗黒時代」をもたらした。
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