奈良の高校での事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:59 UTC 版)
「京都小学生殺害事件」の記事における「奈良の高校での事件」の解説
1998年(平成10年)12月31日、Oは奈良県奈良市にある奈良県立登美ケ丘高等学校へ侵入し、窓硝子34枚を割り、カーテン31枚を刃物で切り、消火器を廊下へぶちまけるという事件を起こしている。現場には児童殺害事件のとき同様に、十数枚の犯行声明を残している。内容は「私は学校に嫌なことをされた。その報復としてガラスを割った。私は日本人で一億二千何人かのだれかだ。いつか名のり出るつもりだ。出ても出なくても手紙を送る。ちょっとまっててくれ。識別記号‥きどきてきたきりきし 1234567810」というもので、この「識別記号」に関して、のちに捜査本部は「てるくはのる」の声明に使用したものと同一のページから、この記号も作成したことを示唆するメモを発見している。翌日、高校から通報を受けた奈良西警察署の署員が現場に赴いたが、学校へのいたずらと判断し、犯行声明の押収は行わなかった。 1999年(平成11年)11月1日になって、登美ケ丘高へ犯人からの手紙が届き、B5判のノートページ2枚に鉛筆でびっしりと「自分が窓ガラスを割った。ガラス代は出来るだけ弁償する」などと記されていた。高校はこの手紙を奈良西警察署へ任意提出したが、奈良県警は児童殺害事件が発生した後も両事件の関連性に気付かず、Oが自殺して後の2000年(平成12年)2月7日に京都府警から連絡があり、初めて認知したとしている。 Oがこの事件を起こしていたことが明らかになったのは、自宅から捜査本部が「奈良の事件もやった」とのメモを押収したためで、建造物侵入容疑などで、児童殺害事件と同時に書類送検されている。メモの文言は「カーテンを切りました。窓ガラスをわりました。高校に設置してある消火器を4本こわしました。コピーした紙をおいておきました」「登美ケ丘高校の教師の機嫌がわるくなったり、人同士の信頼感が少なくなったりして、生徒にも迷惑がかかっただろうと思います。すみません」といったものだった。
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