天城越えから下田へとは? わかりやすく解説

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天城越えから下田へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 15:39 UTC 版)

冬の蠅」の記事における「天城越えから下田へ」の解説

第2章描かれる〈私は腑甲斐ない一人の私を、人里離れた山中遺棄してしまつた〉という峠越え挿話は、天城トンネルから湯ヶ野まで歩いて翌日下田港蓮台寺河内村(現・稲生沢村)まで廻った気まぐれ放浪のことである。これと類似する同様の挿話は『闇の絵巻』でも触れられている(詳細闇の絵巻#天城越え参照)。 普段着軽装のまま、暗い情念突き動かされ衝動的に敢行してしまったこの道程は、冬季春季違いはあるが『伊豆の踊子』と同じコースであった。この放浪の少し前、北野中時代同級生小西善次郎川端康成遠縁)が不意に次郎訪ねてきて、小西から『伊豆の踊子』を案内記天城越え挑戦した話を聞いていた。 此頃は全く寂しいです美し秋景色だが僕はどうも冬ばかりを見るやうだ。此の間トンネル夕方出かけて紅葉見をした。夕方でもなかつたのだが冬至近い日は暮れ易く あの大渓谷が闇に鎖されるのを見ながら湯ヶ野まで歩いてしまつた。一泊し翌日帰つたのですが下田港蓮台寺河内なども瞥見して来ました。闇の天城越は今思つても寒い。身体を少しいためたうでしたが、昨夜今日あたりで平常に帰つたと思つてゐます。 — 梶井基次郎淀野隆三宛て書簡」(昭和2年11月11日付) ちなみに1928年昭和3年3月頃にも、藤沢桓夫一緒に散歩途中で場当たり的乗合バス乗り湯ヶ野温泉降りて宿で休息してから再びバス下田まで行ったこともあった。2人下田の式守旅館に1泊してビリヤードなどで遊び翌日下賀茂温泉まで10キロ歩いて途中果樹園メロンを買い、宇野千代の手土産にした。帰り湯ヶ島までバス戻ったこの間湯川屋」では、2人自殺したのではないと心配して捜索願が出され警察消防団来て大騒ぎになっていた。 なお、大谷晃一は、この藤沢桓夫とのバス放浪旅を1927年昭和2年11月のものと推定し放浪1回けだった捉えているが、鈴木貞美柏倉康夫推敲により、藤沢が再湯した時期や、基次郎徒歩で闇の天城越えをしたという書簡信憑性重視され藤沢との旅と1人旅別のものだと判断されている。

※この「天城越えから下田へ」の解説は、「冬の蠅」の解説の一部です。
「天城越えから下田へ」を含む「冬の蠅」の記事については、「冬の蠅」の概要を参照ください。

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