天城越えから下田へ
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第2章で描かれる〈私は腑甲斐ない一人の私を、人里離れた山中へ遺棄してしまつた〉という峠越えの挿話は、天城トンネルから湯ヶ野まで歩いて、翌日に下田港、蓮台寺、河内村(現・稲生沢村)まで廻った気まぐれな放浪のことである。これと類似する同様の挿話は『闇の絵巻』でも触れられている(詳細は闇の絵巻#天城越えを参照)。 普段着の軽装のまま、暗い情念に突き動かされて衝動的に敢行してしまったこの道程は、冬季と春季の違いはあるが『伊豆の踊子』と同じコースであった。この放浪の少し前、北野中学時代の同級生・小西善次郎(川端康成の遠縁)が不意に基次郎を訪ねてきて、小西から『伊豆の踊子』を案内記に天城越えに挑戦した話を聞いていた。 此頃は全く寂しいです、美しい秋景色だが僕はどうも冬ばかりを見るやうだ。此の間はトンネルへ夕方出かけて紅葉見をした。夕方でもなかつたのだが冬至近い日は暮れ易く あの大渓谷が闇に鎖されるのを見ながら湯ヶ野まで歩いてしまつた。一泊して翌日帰つたのですが下田港蓮台寺河内なども瞥見して来ました。闇の天城越は今思つても寒い。身体を少しいためたやうでしたが、昨夜今日あたりで平常に帰つたと思つてゐます。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付) ちなみに、1928年(昭和3年)3月頃にも、藤沢桓夫と一緒に散歩の途中で場当たり的に乗合バスに乗り、湯ヶ野温泉で降りて宿で休息してから再びバスで下田まで行ったこともあった。2人は下田の式守旅館に1泊してビリヤードなどで遊び、翌日下賀茂温泉まで10キロ歩いて途中の果樹園でメロンを買い、宇野千代への手土産にした。帰りは湯ヶ島までバスで戻った。この間「湯川屋」では、2人が自殺したのではないと心配して捜索願が出され、警察や消防団も来て大騒ぎになっていた。 なお、大谷晃一は、この藤沢桓夫とのバスの放浪旅を1927年(昭和2年)11月のものと推定し、放浪は1回だけだったと捉えているが、鈴木貞美や柏倉康夫の推敲により、藤沢が再湯した時期や、基次郎が徒歩で闇の天城越えをしたという書簡の信憑性が重視され、藤沢との旅と1人旅は別のものだと判断されている。
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