大阪における切子製造の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:31 UTC 版)
「天満切子」の記事における「大阪における切子製造の歴史」の解説
ガラス商人の播磨屋久兵衛は、江戸時代にオランダ人より伝えられたガラス製法を長崎で学んだ。その後大阪に持ち込み天満宮近くでガラス工芸を始めたといわれており、大阪天満宮正門脇には「大阪ガラス発祥の地」の碑が残っている。 1819年(文政2年)には渡辺朝吉が大坂にガラス工場を作った。同じ頃にガラス製造法が江戸に伝わった(江戸切子)といわれている。このためガラス製造の開始は江戸よりも大坂の方が早かったとされる。 1882年(明治15年)には大阪最初の洋式ガラス工場が新設され、同地に日本硝子会社が設立した。 1888年(明治21年)には日本硝子会社を退職した島田孫市が天満地区に島田硝子製造所を興す。島田孫市は大阪における洋式切子の端緒を開いた職人の一人であり、大阪の近代ガラスを象徴する人物だった。これ以後、大阪市北区・天満界隈の与力町・同心町を中心にガラス工場が増えていき、大阪のガラス産業は急速に膨張する。その業者の数は東京を凌いでいたとする書籍もあり、往時の盛況ぶりがうかがえる。ガラスのビー玉がはじめて国産化されたのも大阪市北区である。 その後、国内の競争や安い輸入品に押されて、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退した。2010年代には「大阪ガラス発祥之地」である天満界隈からガラス工場はほとんど姿を消した。
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