大藏彌右衛門家とは? わかりやすく解説

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大藏彌右衛門家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:12 UTC 版)

大藏流」の記事における「大藏彌右衛門家」の解説

家伝によれば大藏流14世紀後醍醐天皇侍講務めていた比叡山学僧玄恵法印流祖とする。玄恵戦乱世の中において、立派な人格養成人として生きる道説くために狂言創始したという。その狂言坂本在住近江猿楽猿楽師であった二世日吉彌兵衛伝えられ三世彌太郎四世彌次兵衛、五世彌右衛門受け継がれた。 六世彌太郎の代には大和猿楽金春座属し、七世彌右衛門の後に世阿彌外孫にあたる八世金春四郎次郎が芸系を受け継いだ四郎次郎死後吉野猿楽出身日吉五郎一時家を継いだが、最終的に養子宇治彌太郎が9世を継ぎ十世彌右衛門の代に「大藏」と姓を改めた十一世彌右衛門織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗りその子十二世彌右衛門は虎清と名乗り豊臣秀吉・徳川家康仕えた十三世彌右衛門虎明(とらあきら)は万治3年1660年大藏流最古狂言伝書わらんべ草』を著わし、元禄7年1694年)になると五代将軍徳川綱吉の上意により江戸屋敷拝領しそれまで奈良住まいから江戸住まいとなったその後二十二世・彌太郎虎年まで代々幕府俸禄を受け、最古伝統を持つ大藏流宗家として狂言着々と守り続けてきたが、明治維新により大きな打撃を受ける。徳川幕府諸大名お抱えとして、長年にわたり手厚い庇護受けていた大藏流狂言師たちはみな俸禄失い転業転職余儀なくされた。宗家もその例外ではなく明治維新後奈良移住していた虎年明治14年1881年)に41歳死去すると、 跡を継ぐ二十三世虎一14歳)は苦し時代の中、一時消息不明となり、京都催され虎年追善会の節に姿を現わすまで、宗家不在数年が続く事となる。 しかしその間も、茂山千五郎茂山忠三郎山本東次郎善竹彌五郎といった大藏流狂言師たちは各家の芸磨き大藏流支え昭和16年1941年)、善竹彌五郎当時茂山久治)の次男茂山吉二が虎一養子入り虎年の娘の外孫にあたる安と結婚し二十四世大藏彌太郎(のち彌右衛門)を名乗り宗家再興した。 現在大藏家では二十四世長男二十五世宗家・大藏彌右衛門虎久(基嗣)と、その弟の吉次郎(基義)、彼らの子である『大藏三兄弟』、大藏彌太郎千虎(虎久の長男)・大藏基誠(虎久の次男)・大藏教義吉次郎の長男)。大藏康誠(基誠の長男)、大藏章照(千虎の長男)の7人が大藏の名を名乗り東京中心に活躍している。

※この「大藏彌右衛門家」の解説は、「大藏流」の解説の一部です。
「大藏彌右衛門家」を含む「大藏流」の記事については、「大藏流」の概要を参照ください。

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