大藏彌右衛門家
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家伝によれば、大藏流は14世紀に後醍醐天皇の侍講を務めていた比叡山の学僧・玄恵法印を流祖とする。玄恵は戦乱の世の中において、立派な人格の養成と人としての生きる道を説くために狂言を創始したという。その狂言は坂本在住で近江猿楽の猿楽師であった二世日吉彌兵衛に伝えられ、三世彌太郎、四世彌次兵衛、五世彌右衛門と受け継がれた。 六世彌太郎の代には大和猿楽金春座に属し、七世彌右衛門の後に世阿彌の外孫にあたる八世金春四郎次郎が芸系を受け継いだ。四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が9世を継ぎ、十世彌右衛門の代に「大藏」と姓を改めた。十一世彌右衛門は織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗り、その子十二世彌右衛門は虎清と名乗り豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。十三世彌右衛門虎明(とらあきら)は万治3年(1660年)大藏流最古の狂言伝書『わらんべ草』を著わし、元禄7年(1694年)になると五代将軍徳川綱吉の上意により江戸屋敷を拝領し、それまでの奈良住まいから江戸住まいとなった。 その後も二十二世・彌太郎虎年まで代々幕府の俸禄を受け、最古の伝統を持つ大藏流の宗家として狂言を着々と守り続けてきたが、明治維新により大きな打撃を受ける。徳川幕府や諸大名のお抱えとして、長年にわたり手厚い庇護を受けていた大藏流の狂言師たちはみな俸禄を失い、転業・転職を余儀なくされた。宗家もその例外ではなく、明治維新後奈良に移住していた虎年が明治14年(1881年)に41歳で死去すると、 跡を継ぐ二十三世虎一(14歳)は苦しい時代の中、一時消息不明となり、京都で催された虎年追善会の節に姿を現わすまで、宗家不在の数年が続く事となる。 しかしその間も、茂山千五郎、茂山忠三郎、山本東次郎、善竹彌五郎といった大藏流の狂言師たちは各家の芸を磨き、大藏流を支え、昭和16年(1941年)、善竹彌五郎(当時・茂山久治)の次男・茂山吉二が虎一の養子に入り、虎年の娘の外孫にあたる安と結婚し、二十四世大藏彌太郎(のち彌右衛門)を名乗り、宗家を再興した。 現在大藏家では二十四世の長男、二十五世宗家・大藏彌右衛門虎久(基嗣)と、その弟の吉次郎(基義)、彼らの子である『大藏三兄弟』、大藏彌太郎千虎(虎久の長男)・大藏基誠(虎久の次男)・大藏教義(吉次郎の長男)。大藏康誠(基誠の長男)、大藏章照(千虎の長男)の7人が大藏の名を名乗り東京を中心に活躍している。
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