外国人の旅行記の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 09:04 UTC 版)
「モルドバの言語・民族性問題」の記事における「外国人の旅行記の記述」の解説
複数の外国人の旅行家がモルダヴィアを訪れており、16世紀以降の記録によると地元の住民は自身の言語を「ルーマニア語」と呼んでおり、モルダヴィアやワラキア、トランシルヴァニアの人々は、その起源がローマ帝国にあることを知っていることに言及している。 トランシルヴァニア・ザクセン人のゲオルク・ライヒャーシュトルファー(Georg Reicherstorffer、1495年 - 1554年)は、ワラキアおよびモルダヴィアにおけるフェルディナント1世の使者であり、1527年と1535年にモルダヴィア公国を訪れ、2つの旅行記「Moldaviae quae olim Daciae pars, Chorographia」(1541年)および「Chorographia Transylvaniae」(1550年)を記している。この中で、モルダヴィアの地理に関して、(モルダヴィアは)その名前の他に、ワラキアと呼ばれることもあるとし、モルダヴィアの住民の言語については「ローマ語(イタリア語)が今も使われており…、(モルダヴィアの)ワラキア人はイタリア系の民族であり、彼らの主張する通り、古代ローマの民の末裔である」としている。ヴェローナ出身の年代史家で軍人のアレッサンドロ・グアニーニ(Alessandro Guagnini、1538年 - 1614年)はモルダヴィアを2度訪れ、ヨアン・ヤコブ・ヘラクリド(Ioan Iacob Heraclid、デスポト・ヴォダ)の公位獲得の手助けをしている。グアニーニはその後「Vita despothi Principis Moldaviae」を執筆した。これは、ヨアン・ヤコブ・ヘラクリドについての伝記であり、この中でモルダヴィアの人々について次のように述べている。「ワラキア人は自身を『ローマ人』と呼び、イタリアのローマをその起源だとしている。彼らの言語はラテン語とイタリア語の混ざったようなものであり、イタリア人ならばワラキア人と意思疎通を図るのはたやすいことである」。イエズス会のイタリア人とみられる人物による1587年の旅行記では、モルダヴィア人について「これらの人々はギリシャ正教に属し、古代ローマに関する事物を好み、おそらくこれは、彼らの言語が俗ラテン語であることや、彼らの自身がローマ人の子孫であるとの考え、自身をローマ人と称することによるものと考えられる。 また、これらの記録によると、周辺に住むスラヴ人たちは、モルダヴィアの人々をヴラフ、ヴォロフ等の呼称で呼んでおり、ワラキアやトランシルヴァニア、バルカン半島一円に住むロマンス諸語話者と同じ名で呼ばれていた。人文学者のニコラエ・オラフス(1493年 - 1568年)は著書「Hungaria et Attila」の中で、モルダヴィア人がワラキア人と同じ言語、習慣、信仰を持ち、衣装のみが異なっているとしている。更に、モルダヴィアやその他のヴラフたちの言語はかつてはローマの言語(ラテン語)であり、彼らはローマ帝国の入植者の子孫であるとしている。 トーマス・トーントン (商人)(Thomas Thornton、1762年 - 1814年)が、オスマン帝国領内での旅行について述べた1807年の著書では、ワラキアやモルダヴィアの農民たちは、貴族(ボイエール、boyars)と区別して自分たちをルムンあるいはロマンと呼んでおり、彼らの言語は俗ラテン語であるとしている。
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