墓の園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:41 UTC 版)
園の墓近くのされこうべの丘 人の顔・髑髏に見える部分 エルサレム内城の北にある園の墓付近の「されこうべの丘」(英語:Skull Hill)をゴルゴタとする説もある。 聖墳墓教会は城内にあることから、それをゴルゴタとする伝統を疑う説は16世紀から現れたが、提唱者はほとんどプロテスタントであった。「聖書地理学の父」といわれるエドワード・ロビンソンが自著『パレスチナにおける聖書研究』(原題:Biblical Researches in Palestine、1841年)において「聖墳墓教会内のゴルゴタと墓はわが主の十字架上の死と復活が起こった場所ではないという結論に至った」と断言し、本当の場所は西(ヤッファ)あるいは北(ダマスカス)へ向かう街道のどれかにあるという代案を提唱した。 ロビンソンの研究に基づいて、ドイツの聖書学者オットー・テニウスは1842年にダマスカス門の近くに位置する「エレミヤの洞窟」と呼ばれる人工洞窟のある丘の一方が髑髏に見えるため、これこそがゴルゴタの丘であるという説を唱えた。テニウスの説はイギリスのヘンリー・トリストラムやクロード・コンダー(ジョサイア・コンドルの従兄弟)らによって支持された結果、イギリスとアメリカのプロテスタント界隈において認識されるようになった。宗教史家のエルネスト・ルナンや、エルサレムに在住したドイツ出身の建築家・考古学者のコンラート・シックもこの説を受け入れた。 この説の支持者の中で最も知られているのは、軍人チャールズ・ゴードンである。1883年にエルサレムを訪れてコンダーとシックらの見解に触発されたゴードンは、独自の聖書の解釈を根拠に「されこうべの丘」はゴルゴタであるに違いないと確信して、更にその近くに発見された洞窟墳墓(今の園の墓)をイエスの墓に比定した。太平天国の乱やマフディー戦争で活躍し国民的英雄となったゴードンの影響で「されこうべの丘」をゴルゴタとする説がより一層広まり、丘は「ゴードンのカルヴァリー」(英語:Gordon's Calvary)とも呼ばれるようになった。 なお、この丘をゴルゴタに比定する人の中でもゴードンがイエスの墓とした墳墓をそうであると認めない者もいた。クロード・コンダー自身はこの墓が1世紀の墳墓とあまりにも異なるため12世紀(十字軍時代)のものであると主張し、ゴードンを「パレスチナ考古学に精通していなかった」と批判した。一方で1970年代に考古学者のガブリエル・バルカイによって行われた調査で、この墓は紀元前8・7世紀頃(初期鉄器時代)に作られ、5世紀~7世紀頃(ビザンツ帝国時代)に再利用され、更に十字軍時代にロバの小屋として使われたことが分かった。いずれにせよ、4つの福音書では「誰もまだ葬られたことのない新しい墓」(ヨハネ19:41)と言われるイエスの墓に比定することは難しいと考えられる。これに対して園の墓を経営する団体・園の墓協会は「この場所が本当にイエスの死および復活の場所であったかどうかは分からないが、その出来事を想像する助けになることだろう」という旨の見解を述べている。 「されこうべの丘」の前には現在バス停がある。2015年に大雨の影響で髑髏の鼻の部分が崩れてしまった。
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