堺水族館時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 05:00 UTC 版)
この節の出典は。 博覧会閉会後の1903年(明治36年)7月31日付属水族館は3500円で堺市に払い下げられ、堺水族館と名称変更し8月1日に開館した。以来毎年4月頃から11月まで開館し、冬季は休館であった。また夏期には夜間開場することもあった。開館当時、最高水準の施設内容で、自然観察・生物教育・水産奨励のためのすぐれた文化施設として声価も高く、市内外から多くの来館者を迎えた。然し、市に経営が移ってからは入場者数が減少し経営不振となったため1905年(明治38年)からは魚槽施設の一部を受負制として経営した。この請負制は1908年(明治41年度)から市営に復したが、1910年(明治43年度)からまた請負制となり、1911年(明治44年)から市営に戻った。この間、1908年(明治41年)3月に水族館の敷地である陸軍省の砲台跡地約52000平方メートル(15760坪)が52219円で堺市に払い下げられた。 しかし、経営状態は改善の兆しが見えない矢先、阪堺電気軌道株式会社から、乗客数増加を図るため大浜公園地内の設備に就いての提案が市に出された。堺市は、公園の設備経営は市で設計した設備方法に準拠すること、公会堂の建設及び水族館の修繕等は市に計画を提出し許可を受ける事等の条件で1911年(明治44年)12月に同社と契約を結んだ。同社は当時南海鉄道会社との競争が激しかったこともあり、契約が結ばれると大浜公園の整備に力をつくし1912年(明治45年)5月に公会堂が設けられ、1913年(大正2年)1月には海水を利用した浴場「大浜潮湯」を開業させるなどした。また、この頃大浜は海水浴場としての整備も整う様になった。
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