基盤的防衛力と久保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 05:09 UTC 版)
久保は国際情勢の緊張緩和が進んだとみられた1970年代に、日本の防衛力整備の理論化・体系化に努めたことで知られる。久保は軍備計画の策定において通常行われる、仮想敵の有する戦力に対抗可能な規模の防衛力を整備する「所要防衛力」の発想を日本の防衛計画に適用することに疑問を呈した。久保の指摘した問題点は、第一に、国際情勢の緊張緩和が進み、差し迫った敵・脅威が存在しない当時(1970年代)の日本の情勢では敵を見定めることが難しいという点、第二に、仮に所要防衛力に基づく防衛力整備を行うにしても、日本では国内外における諸制約から実現が不可能であるという点だった。 久保は上記の認識に基づき、日本の防衛力整備は政治的現実との調和を図るべきであるとして、その目的を「力の真空を生むことを避け、地域の安定・平和維持をめざす」「他国に軍事的な干渉・侵略を躊躇させる程度の能力を持つ」ものと位置づけた。そして、必要最小限の防衛力整備を行うことが妥当であるとした「基盤防衛力」の発想を提起した。また、この主張が行われた動機として久保の思考の中では、明確な規模と目的を与えることによって、自衛隊(特に制服組)のモチベーション向上を促すという意図もあったとされる。 これらの主張は防衛局長時代に各種論文の形で発表され、多くの反響を呼ぶこととなる。この防衛力整備をめぐる議論は1972年に直近の長期防衛計画である第4次防衛力整備計画が決定されたこと、また1974年に外局である防衛施設庁長官に久保が就任したことによって沈静化したが、翌年事務次官として久保が防衛庁に舞い戻り、また防衛政策策定について国民的支持が得られるアプローチを望んでいた長官の坂田道太と意気投合したことから復活し、1976年には「基盤的防衛力」の概念を中核に据えた「防衛計画の大綱」として結実することとなった。 しかし、時を同じくして米ソの緊張が再燃し、1970年代末にはソ連のアフガニスタン侵攻による「新冷戦」と呼ばれる国際環境が生じたことから、緊張緩和を前提とした「大綱」路線を維持することは批判の対象となることも少なくなかった。
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