地方議員時代加波山事件とは? わかりやすく解説

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地方議員時代・加波山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 00:14 UTC 版)

岩崎万次郎」の記事における「地方議員時代・加波山事件」の解説

1884年明治17年6月栃木県会議員当選する。しかし自由党急進派による自由民権運動激化巻き込まれる同年7月万次郎大井憲太郎派の17名が福島茨城栃木千葉からおのおの筑波山集まり秘密集会が行われた。これは、鯉沼九八郎過激派栃木県三島通庸暗殺計画について、先陣切ろう団結志したものであった9月栃木自由党本拠である栃木町大和屋半平に突然の過激派出陣の報が伝わる。大和屋にいた面々現状での作戦有効性疑問視し、塩田万次郎それぞれ過激派解散説得向かった塩田下館にて過激派が町分署襲撃したことを知り遅れた万次郎はそれを途中結城町至った時点察知しそれぞれ退却した。しかし塩田逃げ隠れ先の信州捕まり万次郎佐川野実家勾留され9か月の間投獄された。一連の騒動はのちに加波山事件呼ばれる万次郎取り調べの際、筑波山会合挙兵計画立てられたのではないか尋問されたが、関係者庇うためにあくまで自由党内の改革討議であると否認した加えて1885年明治18年)の大阪事件についても嫌疑目を向けられ、ふたたび逮捕され8か月収監された。免訴処分となったものの、これらを受けて1886年明治19年)に万次郎県会議員辞した。これは同件で入獄となった者が後に大日本帝国憲法発布恩赦釈放された際に「志士」と扱われ熱狂的に歓迎されたこととは対照的である。ただしこの年県議補選により、万次郎再選され県会の場に戻った県会では1888年明治21年)に徴兵参事員、1890年明治23年)に常置委員務めるなど、下都賀郡戸長代表として通算4期過ごした1889年野木村第1回村会議員選挙当選し、当初の村会議員1人になっている。またこの年には大同団結運動呼応し協議会開いて条約中止建白書提出している。 県会著し功績があったわけではないが、新井章吾とのコンビは「新井外務岩崎内務」と称賛された。新井岩崎両氏1889年明治22年)の国会開設の詔を受け、国政に移ることになった下都賀郡根城とする彼ら2人自由党員が国政に進む際、同じ自由党・下都賀出身塩田奥造同士討ち嫌って2人栃木二区を譲り自身栃木四区へ地盤移した

※この「地方議員時代・加波山事件」の解説は、「岩崎万次郎」の解説の一部です。
「地方議員時代・加波山事件」を含む「岩崎万次郎」の記事については、「岩崎万次郎」の概要を参照ください。

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