地方議員時代・加波山事件
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「岩崎万次郎」の記事における「地方議員時代・加波山事件」の解説
1884年(明治17年)6月に栃木県会議員に当選する。しかし自由党急進派による自由民権運動の激化に巻き込まれる。同年7月、万次郎ら大井憲太郎派の17名が福島・茨城・栃木・千葉からおのおの筑波山へ集まり秘密集会が行われた。これは、鯉沼九八郎ら過激派の栃木県令三島通庸暗殺計画について、先陣を切ろうと団結を志したものであった。9月、栃木自由党の本拠である栃木町大和屋半平に突然の過激派出陣の報が伝わる。大和屋にいた面々は現状での作戦の有効性を疑問視し、塩田と万次郎がそれぞれ過激派解散の説得に向かった。塩田は下館にて過激派が町屋分署を襲撃したことを知り、遅れた万次郎はそれを途中結城町に至った時点で察知しそれぞれ退却した。しかし塩田は逃げ隠れた先の信州で捕まり、万次郎は佐川野の実家で勾留され9か月の間投獄された。一連の騒動はのちに加波山事件と呼ばれる。万次郎は取り調べの際、筑波山の会合で挙兵計画が立てられたのではないかと尋問されたが、関係者を庇うためにあくまで自由党内の改革討議であると否認した。 加えて1885年(明治18年)の大阪事件についても嫌疑の目を向けられ、ふたたび逮捕され8か月間収監された。免訴処分となったものの、これらを受けて1886年(明治19年)に万次郎は県会議員を辞した。これは同件で入獄となった者が後に大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放された際に「志士」と扱われ熱狂的に歓迎されたこととは対照的である。ただしこの年の県議補選により、万次郎は再選されて県会の場に戻った。 県会では1888年(明治21年)に徴兵参事員、1890年(明治23年)に常置委員を務めるなど、下都賀郡の戸長代表として通算4期を過ごした。1889年、野木村の第1回村会議員選挙に当選し、当村初の村会議員の1人になっている。またこの年には大同団結運動に呼応し、協議会を開いて条約中止の建白書を提出している。 県会で著しい功績があったわけではないが、新井章吾とのコンビは「新井の外務・岩崎の内務」と称賛された。新井・岩崎の両氏は1889年(明治22年)の国会開設の詔を受け、国政に移ることになった。下都賀郡を根城とする彼ら2人の自由党員が国政に進む際、同じ自由党・下都賀出身の塩田奥造は同士討ちを嫌って弟株2人に栃木二区を譲り、自身は栃木四区へ地盤を移した。
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