國場組の創立
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1931年7月2日、弟の国場幸吉・幸裕とともに3人の名義で沖縄県で国場組を設立。旧日本軍の沖縄での基地建設を中心に請け負い、小禄飛行場(現・那覇空港)や読谷飛行場を手がけ、その成功を足掛かりに、沖縄の飛行場関係工事のその大部分、嘉手納飛行場、伊江島飛行場、西原飛行場、城間飛行場の建設工事に関わった。 「沖縄の旧日本軍施設」を参照 1945年、沖縄戦では最後の連絡機で本土に渡る。熊本で終戦を迎える。親族と社員は国頭地方の山中に避難し、沖縄戦の戦闘にまきこまれることはなかった。 1946年8月、幸太郎は米軍占領下の沖縄に密航で帰郷し、9月に石川市で事業再開。同年12月、幸太郎は米軍から那覇港の港湾作業員の総支配人 (那覇港湾作業隊総支配人) に任命された。米軍那覇港湾施設の便宜のため沖縄民政府は特殊行政区「みなと村」を設置し、幸太郎は「みなと村」の村長も兼任した。1950年8月1日、港湾作業は請負制となり、みなと村は3年で解消、國場組に港湾作業部が設置された。 1950年に建設業を再開し、以後、米軍基地や民間・官庁の建設工事を請け負う。映画・観光・海運にも進出し、1968年に国場組を株式会社に改組し、同社社長および国場一族で占める17社からなる「国和会」の総帥となった。
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