国際的な債権構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 07:54 UTC 版)
1918年に終戦を迎えると、ヨーロッパの国でアメリカ合衆国と提携している国は全てアメリカの銀行から多額の借金をし、その借金の総額はそれらの国々の大戦で蕩尽された国庫では支払いきれないほどになった。これが、連合国がドイツやオーストリア・ハンガリーに対して(ウッドロウ・ウィルソンを驚嘆させたほどの)賠償金を要求した理由の一つである。連合国の信ずるところによれば、賠償金のおかげで連合国は負債を清算する目途がたつはずだった。しかし、ドイツとオーストリア・ハンガリー自身が戦後に深刻な経済危機に陥っていた; 連合国が負債を支払えない以上にドイツとオーストリア・ハンガリーが賠償金を支払えないという状況であった。 債務国は1920年代にアメリカ合衆国に負債の免除か少なくとも負債の軽減を行うことを強く要求した。対するアメリカ政府はその要求を拒否した。代わりに、アメリカの銀行が欧州諸国に対して大規模な貸し付けを始めた。そのため、負債(と賠償金)は古い負債を増額させて新しい負債を積み重ねることによってのみ支払われる。1920年代後半には、特にアメリカ経済が1929年以降に弱体化してからは、欧州諸国がアメリカからさらに金を借りるのが困難になった。同時に、アメリカの高い関税によって、欧州諸国が商品をアメリカ市場で売るのが非常に困難になった。借金を払い戻すために貿易によって収入を得ることもできず、欧州諸国は債務不履行を起こし始めた。 1920年代後半になると、ヨーロッパのアメリカに対する商品需要は減少し始めた。これは、ヨーロッパの産業・農業の生産性が増したからというのもあるし、いくつかの欧州諸国(最も顕著なのはヴァイマル共和制下のドイツ)が深刻な経済危機にあえいでいて外国の商品を買う余裕がなかったからというのもある。しかし、1920年代後半にヨーロッパ経済を不安定化させた主原因は、第一次世界大戦の余波の中で起きた国際的債権構造である。 スムート・ホーリー法のような関税障壁によって戦争負債の支払いが致命的に妨害された。アメリカ合衆国の高関税の結果、ある種の循環のみによって賠償金や戦争支払いの続行がなされた。1920年代に、かつての連合国は主にドイツの賠償金支払いによって得られた資金によって戦争負債を分割支払いし、ドイツはアメリカ合衆国とイギリスからの私的な借金によってのみ支払うことができた。同様に、アメリカが海外に投資したドルのみによって諸外国がアメリカの輸出品を購入することができた。 1929年の株式市場急落に続く流動性の奪い合いの中、ヨーロッパからアメリカへ資金が回収され、ヨーロッパの脆弱な経済が砕け散った。 1931年までに、世界は近現代で最悪の恐慌によってがたつき、賠償金や戦争負債の構造全体が崩壊した。
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