国際ギャング団時代
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戦前より神戸三宮を中心に愚連隊の旗頭として活動していた。戦後になって三宮を中心に「国際ギャング団」として、朝鮮人、中国人、台湾人の一部と無法者一味と活動を共にするようになった。主に闇市で用心棒を勤める一方、闇物資の倉庫管理などをシノギとしていたが、情報ミスから適正な物資を強奪して、検挙された際に一部台湾人が含まれていたことから、新聞紙上で「国際ギャング団」の異名が付けられるようになる。 1946年頃、神戸で自警団を組織していた二代目山口組の若衆田岡一雄、吉川勇次と三宮の朝鮮人連盟本部との間で引き起こった緊迫した場面を仲裁したりした。1946年4月4日、三宮の闇市の利権に絡む問題がこじれた際、菅谷の舎弟藤本元司が朝鮮人連盟神戸支部情報部長・洪 準水を射殺してしまう事件が起きた。この事件で菅谷は逮捕・脱獄を繰り返し、地裁では無期懲役となったが、控訴審の途中でサンフランシスコ講和条約(1951年)の恩赦があり懲役18年となった。菅谷逮捕の指揮を執ったのは兵庫県警刑事課長の職にあった秦野章(後に自民党 参議院議員)であった。しかし一方で秦野は、「控訴すれば減刑になる。あきらめたら駄目だ」と菅谷に控訴を勧め、「伊豆の踊り子」を差し入れに持ってきたなどのエピソードがある。秦野の記憶によると、ずっと後の事だが、彼が客としていた銀座のクラブ「姫」に後から訪れた菅谷は、秦野を見ると「あそこにおるのは秦野さんやろう。俺は世話になったけど顔をあわせる事ができん。よろしゅう伝えてくれ」と店を去ったという。
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