四戸についてとは? わかりやすく解説

四戸(しのへ)について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 08:10 UTC 版)

五戸町」の記事における「四戸(しのへ)について」の解説

一戸九戸地名のうち、四戸のみ地名として現存しない。ただし、四戸嘗て存在したことが判っており、『北辺中世史』(六戸町名著出版 1997年)、『六戸町史 上』(六戸町編纂委員会編 六戸町刊行委員会 1993年)、『角川日本地名大辞典 2 青森県』(角川書店 1985年)、『七戸町史』(七戸町 1982年)などの郷土資料によると、四戸現在の馬淵川下流域浅水剣吉・名久井・福田苫米地櫛引島守地区にあたるという。 五戸町内には大字豊間内字志戸岸ならびに大字浅水という候補地がある。ともに浅水川沿岸であり、4kmほどの距離である。南部氏祖先光行の五男宗清から始まる四戸氏参照のこと。 志戸岸 「志」がもともと「四」であったとする説。ただし周辺丘陵には、山城であったことを推定できる遺構発見されていないまた、この集落には寺またはその遺構発見されておらず、根拠乏しい。五戸町到る青森県道214号線はあるが、五戸町中心部からは外れている。この集落北側には大規模な山城設置可能な平坦な丘陵があり(現在は畜産施設として利用されているため調査不可)、浅水川上・下流に対す視界良好である。 浅水 「死の辺」から「朝不見になったという説。浅水城跡が八幡宮として現存する。古陸羽街道沿いにあり、本三戸城聖寿寺館)と五戸城(詳細不明、現古舘地区駒形神社か)の中間に当たる。小規模ながら近世まで宿場町であった中世のかなり早い時期四戸城四戸川が同時に浅水改名され可能性がある(浅水川上流には他にも集落があるので、中間の集落同名であることが不自然)。古街道三戸との峠付近山姥伝説がある。 両者中間の浅水川南岸には野沢(ぬさ)城跡稲荷宮として現存する岩手県二戸市北部二戸郡四戸郷とする説がある。四戸氏入部浅水より移転)によってこのように呼ばれるようになったのか、それ以前からであったのかは不明金田一四戸城址とする箇所があるが、これは「四戸氏居城」との意味である可能性が高い。「南部光行の五男宗清浅水配置され四戸氏呼ばれるようになり、後に二戸郡北部移転、その地を四戸郷と呼ぶようになった」とするのが合理的である。

※この「四戸(しのへ)について」の解説は、「五戸町」の解説の一部です。
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