問題の拡大と改革の模索・聖人の輩出
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「問題の拡大と改革の模索・聖人の輩出」の解説
アレクサンドル1世(在位:1809年 - 1825年)は神秘主義に傾倒していたが、モラヴィア兄弟団やドイツ神秘主義と接触しクエーカーをロシアに招待したことにもみられるように、彼の神秘主義は西方を志向していて正教会とはほとんど接点がなかったと考えられている。皇帝の正教会に対する無関心は、19世紀におけるロシア正教会の問題の拡大と解決の遅延を結果的にもたらすこととなった。 19世紀はロシア正教会の問題が膨れ上がっていった時代であった。教会法は前近代的なものであった上に教会司法は未整備のまま、高位聖職者の風紀紊乱は最悪のレベルに達しており、他方、教会を支える底辺に位置する司祭達の貧困は悲惨を極めて社会問題化していった。19世紀中ごろには、もはや教会の改革の必要性は誰の目にも明らかなものとなっていたが、I.S.ベーリュスチンは著書『19世紀のロシア農民司祭の生活』(訳:白石治朗)においてそうした情況を詳細に告発した。大改革を進めていたアレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)と、開明的であるとされていた聖務会院総裁A.P.トルストイは本書に共感を示して問題意識を共有したといわれるが、そのことによる皇帝によるベーリュスチンに対する保護命令が無ければ、そのあまりに赤裸々な内容を問題視した聖務会院によって、ベーリュスチン神父はソロヴェツキー修道院に追放されるところであった。元々極寒の地において豊かでなかったロシア帝国はあまりにも深刻な貧困というハンディを抱え、改革は遅々として進まなかった。 このような悲惨な時代にあって、ロシア正教会には精神的な救済を求める人々が絶えなかった。サロフの聖セラフィム、クロンシュタットの聖イオアン、アラスカの聖インノケンティ、日本の亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)といった多くの聖人も輩出されている。前述の開明的な聖務会院総裁A.P.トルストイは、ニコライ・カサートキンの日本での伝道活動に対してさまざまな援助を行っている。 19世紀半ばはさまざまなロシア正教会の矛盾が顕在化した時代であったが、同時にそれに対する問題意識もまた広く共有され、精神的復興と教会の改革が模索されていく時代でもあった。これらの模索と試みはアレクサンドル2世の暗殺などによってほとんど中途に終わったが、豊かに聖人・文化が生み出される時代精神を表すものでもあった。
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