名古屋市政・名古屋電灯時代
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「加藤重三郎」の記事における「名古屋市政・名古屋電灯時代」の解説
1898年(明治31年)10月、名古屋市会議員に初当選。1904年(明治37年)10月の満期改選でも当選した。その間の1903年(明治36年)4月、第7代名古屋市会議長に就任し、1905年(明治38年)1月まで在任している。 1906年(明治39年)6月27日、青山朗の後任として第6代名古屋市長に就任した(市会議員は前日付で辞任)。5年の在職中、熱田町の合併、区の設置、新堀川の開削、上下水道の整備、第10回関西府県連合共進会(会場は鶴舞公園)・名古屋開府三百年記念祭の開催などを手掛けた。在職中は愛知県知事深野一三、名古屋商業会議所会頭奥田正香と緊密に連携し、その関係は「三角同盟」と称された。 1910年(明治43年)、名古屋市の電力会社名古屋電灯と、奥田が社長を務める新興の電力会社名古屋電力(八百津発電所建設中)の合併問題が起こると、加藤は知事の深野とともに合併の仲介にあたる。合併成立後、資本金1600万円の大会社となった名古屋電灯では、開業間もない1891年以来設置されていなかった社長職を再設置する(前任者三浦恵民)こととなり、加藤を会社に招聘した。加藤はまず1911年(明治44年)6月28日の株主総会にて取締役に選出される。次いで7月3日付で市長を退任。2日後の5日に名古屋電灯取締役社長に就任した。 しかし1913年(大正2年)、大須にあった遊廓「旭廓」(1923年移転し中村遊廓となる)の移転をめぐって、名古屋土地取締役兼松煕や地主の渡辺甚吉・衆議院議員安東敏之らと共謀して不動産会社の名古屋土地株式会社から金銭を騙し取ったとして起訴された。この疑獄事件(稲永疑獄)により同年12月加藤も懲役刑の判決が下るが、翌1914年(大正3年)6月の控訴審で無罪となった。その間の1913年12月3日、加藤は名古屋電灯取締役社長を辞任。社務を執れなくなった加藤に代わり同年9月から社長代理となっていた常務の福澤桃介が後任社長となった。
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