合同の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:12 UTC 版)
「合同法 (1707年)」の記事における「合同の理由」の解説
合同法制定の背景には17世紀末からから18世紀初のヨーロッパにおける中央集権の傾向がある。この傾向はネーデルラント連邦共和国やヴェネツィア共和国といった例外もあったもののフランス王国、スウェーデン帝国、デンマーク=ノルウェー、スペイン帝国にみるように明らかである。一方で合同法の条項に1701年王位継承法とカトリックの王位継承排除が含まれるように、セクト主義の影響もみられる。 イングランドとスコットランドの両方を統治する君主として、片方の議会を利用してもう片方と敵対するという危険性は1647年の第二次イングランド内戦と1651年に第三次イングランド内戦で明らかになり、1679年から1681年までの王位排除法危機で再び浮上した。このとき、カトリックであるヨーク公ジェームズがチャールズ2世の後継者になることに対しイングランドが反発したため、ジェームズは1681年にエディンバラに派遣されスコットランド議会における国王代表(英語版)に就任した。8月、スコットランド議会は王位継承法を可決し、王権神授説、「宗教にかかわらず」血縁による相続人の権利を認め、さらにその相続人が国王に就任すると、新王に忠誠を誓う義務を認めた。また、スコットランド王位の独立性も再確認した。この王位継承法の目的はジェームズをイングランド王位から排除すると内戦が必至であるという状況を作り出すことで、ジェームズによるスコットランド王位継承を保証することと明示された。 この問題は1688年の名誉革命で再発した。このとき、イングランド議会はジェームズ2世を退位させて、プロテスタントとして育てられた娘メアリー2世を即位させることには大方賛成していたが、メアリー2世の夫でオランダ出身のウィリアム3世および2世を共同統治者として即位させることには反発した。イングランド議会は後に譲歩したが、これはウィリアム3世がオランダに帰国すると脅し、メアリー2世も夫を即位させず自身だけで統治することに反対した結果だった。 一方、スコットランドでは長老派と監督派が教会の支配をめぐって争っており、ウィリアム3世がカルヴァン派だったためその立場はイングランドでの立場よりも強かった。ウィリアム3世は最初は監督制の維持とスコットランド議会の条文委員会(Committee of the Articles、国王によって任命され、スコットランド議会が弁論する法案について定める委員会)の維持を主張、スコットランドにおける王権をイングランドにおける王権より強くなるよう仕向けようとしたが、1689年ジャコバイト蜂起によりその要求を撤回した。
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