司馬穎・司馬顒を鎮圧
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303年7月より、司馬顒・司馬穎は結託して当時朝廷の第一人者であった長沙王司馬乂を排斥せんとしており、304年1月には内戦の末に洛陽を陥落させて恵帝の身柄を奪い、司馬乂を殺害した。これを聞いた王浚は司馬穎らの横暴に大いに憤り、これを討伐しようと考えるようになった。司馬穎もまた司馬倫討伐の一件で王浚を恨んでおり、304年7月には腹心の右司馬和演を幽州刺史に任じ、彼に密かに命を下して王浚の暗殺を命じた。しかし和演の協力者であった烏桓単于の審登は、和演を裏切ってこの計画を王浚にばらしてしまった。このため王浚は和演を捕えて斬殺し、これにより幽州全域を自ら領有する事となった。さらに武具・兵器を整備すると、段部の大人段務勿塵・烏桓の大人羯朱・東嬴公司馬騰と共に挙兵し、胡人・漢人合わせて2万人を率いて司馬穎の本拠地である鄴へ侵攻した。 司馬穎は北中郎将王斌と石超に迎撃を命じたが、王浚は司馬騰と軍を合わせて王斌を撃ち、これを大破した。さらに平棘へ侵攻し、主簿祁弘を前鋒として石超を撃ち破ると、勝ちに乗じて進撃を続けた。司馬穎は大いに恐れて鄴を放棄し、恵帝を伴って洛陽へ遁走した。王浚は鄴に入城すると、羯朱に司馬穎追撃を命じて朝歌まで進軍させたが、間に合わなかった。この時、配下の将兵は鄴城内で大々的に略奪を行い、多数の民衆が命を落としたという。また、薊城へ帰還する際、鮮卑の兵は婦女を多数誘拐したが、王浚は婦女を匿う者は切り捨てると宣言したので、実に八千人余りが殺されて易水に沈められた。その後、幽州に帰還すると、この業績によりその声望はますます盛んとなった。 11月、司馬顒配下の張方は恵帝を無理やり洛陽から連れ出し、司馬顒の本拠地である長安へ連れ去った。305年7月、王浚は范陽王司馬虓・東平王司馬楙らと共に東海王司馬越を盟主に奉じ、恵帝奪還と司馬顒打倒を掲げて挙兵した。12月、司馬虓が司馬顒一派の豫州刺史劉喬に敗れて河北に逃れてくると、王浚はこれに応じて騎兵八百を分け与え、司馬虓はこれにより勢いを盛り返し劉喬の軍勢を散亡させた。さらに王浚は祁弘に烏桓突騎を与えて司馬越軍の先鋒とし、長安攻略を援護させた。祁弘は討伐軍の先鋒として主体的な役割を果たし、司馬顒の軍勢を尽く返り討ちにし、長安攻略と恵帝奪還を成し遂げた。だが、ここでも配下の鮮卑兵は略奪・暴行を行い、2万人余りの民衆が犠牲となったという。 306年8月、王浚は功績により都督東夷河北諸軍事・驃騎大将軍・幽州刺史に任じられ、博陵に加えて燕国を封国として与えられた。内戦に敗北した司馬穎・司馬顒は、いずれもその後暗殺され死亡した。307年1月、懐帝が即位すると、司空・領烏桓校尉に昇進した。王浚は上表して段務勿塵を遼西公に封じ、段部の傍系である大飄滑と弟の渇末別部大屠瓫らをみな親晋王に封じた。
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