司馬穎司馬顒を鎮圧とは? わかりやすく解説

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司馬穎・司馬顒を鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:42 UTC 版)

王浚」の記事における「司馬穎・司馬顒を鎮圧」の解説

303年7月より、司馬顒司馬穎結託して当時朝廷第一人者であった長沙王司馬乂排斥せんとしており、304年1月には内戦の末に洛陽陥落させて恵帝身柄奪い司馬乂殺害した。これを聞いた王浚司馬穎らの横暴に大い憤り、これを討伐しようと考えようになった司馬穎もまた司馬倫討伐一件王浚恨んでおり、304年7月には腹心の右司馬和演を幽州刺史任じ彼に密かに命を下して王浚暗殺命じた。しかし和演の協力者であった烏桓単于の審登は、和演を裏切ってこの計画王浚ばらしてしまった。このため王浚は和演を捕えて斬殺し、これにより幽州全域を自ら領有する事となった。さらに武具兵器整備すると、段部大人段務勿塵烏桓大人・東嬴公司馬騰と共に挙兵し胡人漢人合わせて2万人を率いて司馬穎本拠地である鄴へ侵攻した司馬穎北中郎将王斌石超迎撃命じたが、王浚司馬騰と軍を合わせて王斌撃ち、これを大破した。さらに平棘侵攻し主簿祁弘前鋒として石超撃ち破ると、勝ちに乗じて進撃続けた司馬穎大い恐れて鄴を放棄し恵帝伴って洛陽へ遁走した。王浚は鄴に入城すると、羯司馬穎追撃命じて朝歌まで進軍させたが、間に合わなかった。この時、配下将兵は鄴城内大々的略奪行い多数民衆命を落としたという。また、城へ帰還する際、鮮卑の兵は婦女多数誘拐したが、王浚婦女匿う者は切り捨てる宣言したので、実に八千余り殺され易水沈められた。その後幽州帰還すると、この業績によりその声望はますます盛んとなった11月司馬顒配下張方恵帝無理やり洛陽から連れ出し司馬顒本拠地である長安連れ去った305年7月王浚范陽王司馬虓・東平王司馬楙らと共に東海王司馬越盟主奉じ恵帝奪還司馬顒打倒掲げて挙兵した。12月司馬虓司馬顒一派豫州刺史劉喬敗れて河北逃れてくると、王浚はこれに応じて騎兵八百分け与え司馬虓はこれにより勢い盛り返し劉喬軍勢を散亡させた。さらに王浚祁弘烏桓突騎を与えて司馬越軍の先鋒とし、長安攻略援護させた。祁弘討伐軍の先鋒として主体的な役割果たし司馬顒軍勢尽く返り討ちにし、長安攻略恵帝奪還成し遂げた。だが、ここでも配下鮮卑兵は略奪暴行行い2万余り民衆犠牲となったという。 306年8月王浚功績により都督東夷河北諸軍事・驃騎大将軍幽州刺史任じられ博陵加えて燕国封国として与えられた。内戦敗北した司馬穎司馬顒は、いずれもその後暗殺され死亡した307年1月懐帝即位すると、司空・領烏桓校尉昇進した王浚上表して段務勿塵遼西公に封じ段部傍系である大飄滑と弟の渇末別部大屠瓫らをみな親晋王封じた

※この「司馬穎・司馬顒を鎮圧」の解説は、「王浚」の解説の一部です。
「司馬穎・司馬顒を鎮圧」を含む「王浚」の記事については、「王浚」の概要を参照ください。

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