古代ロシア文学
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古代ロシア文学は、古東スラブ語(古代教会スラヴ語とは異なる)で書かれた少数の作品から構成されている。イーゴリ遠征物語や囚われたダニエルの祈り(英語版)などの作者不詳の作品がこれに含まれる。いわゆる「聖人伝」(жития святых, zhitiya svyatikh)は古代ロシア文学において一般的なジャンルであった。アレクサンドル・ネフスキー(Житие Александра Невского, or Zhitiye Aleksandra Nevskogo)はその著名な例である。その他に注目すべき作品としては、『ザドンシチナ(英語版)』、『生理学者 (ロシア文学)(英語版)』、『キエフ概要(英語版)』、『3つの海のかなたへの旅(英語版、ロシア語版)』などがある。口承による叙事詩であるブィリーナでは異教とキリスト教(特に正教)の諸伝統が混淆しており、ビュザンティオン文学(英語版)からの影響を感じさせる。中世ロシアにおける文学は、そのほとんどがキリスト教に根ざした人物の物語であり、南スラブの伝統がちりばめられつつも古代教会スラブ語が用いられる事が多い。口語を用いた初めての作品は、17世紀中頃に執筆されたアヴァクームの自伝である。 ジョチ・ウルスによる長きに亘るタタールのくびきの後、最初の「全ロシアのツァー」イヴァン4世(1530-1584)の治世下でモスクワ大公国を中心としてロシアの領域は統一された。イヴァンの死に際し、正統の後継者は存在しなかった。最終的に、権力はボリス・ゴドゥノフの手に落ちた。その短い治世は動乱時代(смутное время)の幕開けとなり、この時期にはクレムリでは大貴族らが次々と跡を継いだ。この政治混乱は前代未聞の飢饉と恐慌を伴ったが、文化的な観点から見れば、この混沌とした時代は豊かなものであった。ポーランド・リトアニア共和国からの刺激の下、ロシアは外部世界へと開かれた。 1613年のツァーリ選挙によりミハイル・ロマノフが選出され、長期支配となるロマノフ朝が創始され、1615には政治的不安定は終息した。17世紀末には、ミハイルの息子「最も平和な(Тишайший)」アレクセイがその跡を継いだ。数多くの改革と、正教古儀式派(「ラスコーリニキ」及びその訳語である「分離派」は蔑称)の出現がその治世の特徴となっている。2番目の妻ナタリヤ・ナルイシキナ(ピョートル1世の母)はヨーロッパの状況に強い関心があり、夫アレクセイに大きな影響を及ぼした。中でも特に西洋の演劇をロシアに導入し、常設劇団を設置した。
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