原住民の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:48 UTC 版)
前述の通り、1636年12月28日付の『東インド事務報告』には554名が島から連行され、その後の連行者も若干名いたと考えられている。更に続いて、この中でも才能があり健康で容姿端麗な172名をオランダのアジア進出の拠点であったバタヴィア(現在のインドネシアジャカルタ)に送り、残った者のうち、抵抗した者は全て鎖でつなぎ奴隷としてワンカン(現在の嘉義県布袋鎮)やタイオワンで労働に従事させたとある。これは1634年に中国の海賊である劉香によるワンカンとタイオワンが攻撃され、タイオワンにあったオランダ政庁(ゼーランディア城)も被害を受けた事に対する対応の一環であったと考えられている。更に婦人や子供はシンカン社の間でバラバラに住まわせてキリスト教化を進めたことも記されている。これは『ゼーランディア城日誌』に記された評議会決議、すなわち捕えられた全ての女性と10歳以下の男子をシンカン社に与えるが、奴隷扱いすることは認めないとするものと合致している。これは、シンカン社と台湾政庁の関係が良好でキリスト教にも好意的かつラメイ島侵攻にも一貫して協力的であったことに配慮したものと考えられている。また、『バタヴィア城日誌』1645年3月1日条所収の「台湾報告抄」によれば、その後一般男性の一部もシンカン社に送られたという。だが、シンカン社の居住地(現在の台南市新市区)においてラメイ島の人々が半ば奴隷扱いされ、オランダ人もこれを黙認していたことを伺わせる記述も残されている(『ゼーランディア城日誌』1637年7月11日ほか)。だが、時代が下るとラメイ島の人々がシンカン社の人々と同化していったことが推測され、シンカン社の指導者の中にラメイ島出身を意味するラメイヤー(Lameyer)を名乗る人物も登場するようになる。また、1645年頃の長崎オランダ商館長のピーター・アントニスゾーン・オーフルトワーテルの下僕にピーテル・ラメイヤー(Pieter Lameyer)という人物が登場する。その一方で過酷な奴隷労働で命を落としたり、流浪の生活を余儀なくされた人々も少なからずいたと考えられている。 その後の台湾の支配勢力の変遷によるラメイ島での虐殺・連行事実の忘却化によって、台湾本土あるいはインドネシアに送られた原住民の生き残りがどうなったかを知ることは事実上不可能となっている。
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