区の下位区画としての地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 14:04 UTC 版)
「ベルリンの行政区」の記事における「区の下位区画としての地区」の解説
行政区の下位区画としての地区 (Ortsteil) については、現在も効力を持つ1920年の大ベルリン法で触れられている。 第29条第1項:「区議会と区長の一致した決議により、市参事会の承認を得た上で、行政区を地区(Ortsbezirk, 都市条例第60条)に区画することができる」。 ベルリン憲法によって変わったのは用語のみであった。すなわち区議会 (Bezirksverordnetenversammlung → Bezirksversammlung)、市参事会 (Magistrat → Senat)、地区 (Ortsbezirk → Ortsteil) といった変更である。統計に用いられる地区は、区が定めたものである。 大ベルリン法により、これまでの村や都市が地区となった。旧自治体に区の境界線が引かれた場合、分割された部分がそれぞれ応分の地区となった。シャルロッテンブルク区は、それ以前は独立都市シャルロッテンブルクであったが、独立都市から成立した区の中で唯一、下位区画の地区が設定されなかった。フリードリヒスハイン区は「アルト=ベルリン」から成立した区で唯一、地区が設定されていた(フリードリヒスハイン地区とシュトラーラウ(ドイツ語版)地区)。 時を経るに従い地区の境界も変化した。小さな地区は改廃され、また新興住宅団地は既存の地区から分離し、新たな地区となった(多くは数年の時を経た後)。大規模な変更がまとまって行われたのは、1938年また1950年代初頭の区改革、加えて2001年から2004年にかけての区合併であった。 東ベルリンでは1965年から地区が設定されず、そのため1979年に都市区を数区新設した際も、既存の地区境界が考慮されることはなかった。東西統一後に、地区制度が再導入されると稀な事態が起きた。2つの区(ホーエンシェーンハウゼン区(ドイツ語版)、ヴァイセンゼー区(ドイツ語版))に同名の「マルヒョウ(ドイツ語版)」地区ができてしまったのである。しかしその後の2001年に後者は都市外縁住宅団地マルヒョウ(ドイツ語版)と改称された。 1920年に制定された地区は基本的に中世に成立した村々の集落構成に沿ったものであった。2001年以降いくつかの変更が加えられたのも、1961年から1989年に大量に建設された大規模な高層住宅団地を反映するためであった。西ベルリンではハンザフィアテル(ドイツ語版)地区(1960年)に次いで、グロピウスシュタット(ドイツ語版)地区、メルキッシェス・フィアテル(ドイツ語版)地区が挙げられる。東ベルリンでは大規模な住宅団地に対し、既に1970年代後半から区を新設することで対応してきた(マルツァーン区、ヘラースドルフ区、ホーエンシェーンハウゼン区)。2012年にはライニッケンドルフ区のヴィテナウ(ドイツ語版)地区からボルジヒヴァルデ(ドイツ語版)地区が分離し、ベルリンで96番目の地区となった。
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