区の歴史とは? わかりやすく解説

区の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:14 UTC 版)

住吉区」の記事における「区の歴史」の解説

住吉古代では「すみのえ」と訓み万葉集にも登場し歴史は古い。現在、住吉住之江墨江は、別な地域名となっているが、元は住吉読みの「すみのえ」の異表記だった。 古代には住吉津すみのえのつ)とそれを護る住吉大社栄えた中世には、住吉大社宮司津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝後村上天皇御座所皇宮)が約10年置かれ住吉行宮)、南朝拠点となった。中近世以降住吉郡東部平野郷栄え住吉津面影消えた沿岸部では代わって新田開発盛んに行われた近代に入ると、1879年明治12年)に大阪府郡区町村編制法施行され安立町住吉郡役所置かれた。しかし、郡役所1881年明治14年)に、郡自体1896年明治29年)に東成郡統合され住吉郡消滅した住吉区は、1925年大阪市第二次市域拡張伴って東成郡全域大阪市編入された際、旧住吉郡全域平野郷町喜連村北百済村南百済村田辺町依羅村墨江村住吉村安立町敷津村長居村)と旧東成郡天王寺村区域誕生した大阪市編入の際には、当初は名称を「阿倍野区」とする案が出されたが、最終的に住吉区の名称が採用された。 その後1943年の分増区により、当時阿倍野区東住吉区に当たる区域分離した1943年の分増区の際、当時住吉区役所は現阿倍野区区域にあったことから、現在の阿倍野区が「住吉区」の区名継承し現在の住吉区区域を「住之江区」とする案が出された。しかし住民反対によりこの案は撤回され住吉大社周辺を含む当区の区域住吉区区名継承した。 また1943年の分増区の際、隣接する西成区との間で区の境界見直しが行われ、一部区域天下茶屋山王地区および旧敷津村一部)が西成区分離編入される同時に当時西成区属していた粉浜地区住吉区編入された。 1974年には住吉区住之江区分区された。従来の区について、細井川細江川以北南海本線細井川以南阪堺線を境に東西分け西部住之江区とした。住之江区分区により、住吉公園安立浜口などは住之江区属することとなった

※この「区の歴史」の解説は、「住吉区」の解説の一部です。
「区の歴史」を含む「住吉区」の記事については、「住吉区」の概要を参照ください。

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