北部担当国務大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:29 UTC 版)
「ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)」の記事における「北部担当国務大臣」の解説
アンの治世ではスペイン継承戦争が課題として示され、大蔵卿(英語版)シドニー・ゴドルフィンは友人でイングランド軍総司令官の初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルを大陸へ送り出して後方でイングランドを支える役目を負っていた。ハーレーはトーリー党員だが穏健派であるためゴドルフィンに協力、急進派の初代ロチェスター伯爵ローレンス・ハイドと第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチとは一線を画していた。1702年にロチェスターが、1704年にノッティンガムが政権を去ると1704年4月27日に枢密顧問官に任命され、さらに同年5月18日に北部担当国務大臣に選ばれ、閣僚入りしてゴドルフィンと共に穏健派として政権を率いる立場になった。ハーレーは国務大臣に就任した後も1705年4月の議会解散まで庶民院議長に留任した。 しかし、1705年にホイッグ党が議会の与党になり、ゴドルフィンが政権運営のため閣僚にホイッグ党員を入れた頃から警戒し始めた。スコットランドとの合同交渉では1706年4月10日にイングランド代表の1人に選出されたが、12月にゴドルフィンがスコットランドとイングランド合同の必要性とホイッグ党の要求で第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーを南部担当国務大臣に起用するとゴドルフィンに不信感を抱いたアンに接近した。グレートブリテン王国が成立した翌1707年にアンの親友でマールバラ公の妻サラ・ジェニングスとアンが衝突、サラの従妹でハーレーの又従妹でもあるアビゲイル・メイシャムがアンの信頼を得ると、アビゲイルを通してアンの側近となりゴドルフィンから離れていった。1708年には第3代準男爵サー・ウィリアム・ドーズ(英語版)がチェスター主教(英語版)に、オフスプリング・ブラッコール(英語版)がエクセター主教(英語版)に任命されたが、ゴドルフィンは2人の任命をめぐりハーレーが(大臣間の協議なく)独断でアン女王と相談して任命を決めたと疑い、ハーレーとアン女王がそれぞれ否認したもののハーレーとゴドルフィン・マールバラの間の不信感は増大した。
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