劉裕と仏教とは? わかりやすく解説

劉裕と仏教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 03:41 UTC 版)

劉裕」の記事における「劉裕と仏教」の解説

慧皎高僧伝』には、『宋書』からは伺えない劉裕と仏教との濃密な関係が記されている。 慧遠劉裕恩人の王謐との交流深めていた。また盧循の父や盧循とも交友があったため、五斗米道の乱が勃発した際に劉裕配下らは慧遠危険視していた。しかし劉裕慧遠徳高さを信頼しており、盧循との交友ゆえの嫌疑不問とした。 仏像に関するエピソード桓玄打倒後、王謐が街角出たとき、樗蒲いそしむ者たちの地面が金に光っていたのを目撃したその場所を掘ると劉裕とほぼ同じ高さの仏像掘り出された。王謐がそのこと報告すると、劉裕仏像懇ろに供養した。 ブッダバドラ仏陀跋陀羅):西方よりの渡来僧。姚興支配する後秦多く経典翻訳従事したが、のちに追放され江陵に。劉毅討伐のため江陵出た劉裕ブッダバドラ出会うなり大い尊崇し、経典翻訳事業援助した慧観江陵司馬休之のもとに寄寓。のちに司馬休之劉裕攻撃を受け後秦亡命するが、釈慧観江陵留まり劉裕との交友をなした。 慧厳長安逗留経験経て建康帰還した僧。そのため劉裕後秦征伐にあたり道案内役を請け負っている。 智厳劉裕後秦討伐出向いたとき、同道していた琅邪王氏始興公王恢(王偃の兄)に見出され建康招聘された。はじめ始興寺に住まったが、都会喧噪疲れ郊外園寺に移住した。 僧洪:晋末頃には青銅私的鋳造したもの死刑と言う法があった。釈僧洪はその取り決めをあえて破り青銅にて仏像鋳造取り調べにあい、また処刑も決まるのだが、間もなく劉裕より赦免とせよ、と言う命令下った。 慧義:神が劉裕皇帝即位当たって宝物を山に隠したと言う予言劉裕元に届けたところ、その財宝入手するよう命じられた。無事財宝獲得して建康持ち帰った釈慧義は劉裕に重んぜられた。また劉裕側近ひとりである范泰よりの尊崇受けており、祇洹寺の寄進受けている。 法和:詳細な伝記伝わらないが、劉裕より重んぜられ、建康の僧主、すなわち僧たちの総取締役に任ぜられている。 僧導:後秦滅ぼしたのち、かねてより釈僧導の名声聞いていた劉裕は、関中守備責任者である劉義真サポートを釈僧導に委任した。のちに赫連勃勃よりの襲撃受けたとき、釈僧導は身を挺して劉義真を守る。そのため建康入りした後、劉裕大い重んじられ劉裕息子らの教育任じられた。

※この「劉裕と仏教」の解説は、「劉裕」の解説の一部です。
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