劉裕の簒奪と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
再興されたとはいえ、もはや東晋皇帝に権力は全くなく、再興の功労者である劉裕が政軍を掌握した。劉裕は山東半島にあった鮮卑の南燕を北伐して滅ぼした。さらに孫恩の妹婿の盧循が水路から首都に迫ると、劉裕はこの反乱軍を石頭に迎え撃って大破し、さらに追撃して交州まで派兵して411年までに完全に滅ぼした(盧循の乱)。417年には関中に進出して後秦を滅ぼしたが、この時は江南で不測の事態が起こることを恐れて帰還し、奪った華北の領土もほとんどが異民族国家により奪取された。 これらの武勲により強大な権力を得た劉裕は、安帝を殺してその弟の恭帝を擁立した。そして420年、劉裕は恭帝から禅譲を受けて南朝宋が開かれ、東晋は滅亡した。
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