創設前~ブラウンズ設立(1882年 - 1899年)
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「セントルイス・カージナルス」の記事における「創設前~ブラウンズ設立(1882年 - 1899年)」の解説
1871年にアメリカ合衆国でプロ野球リーグが始まってからしばらく、セントルイスを本拠地とする球団は現れなかった。ファンのプロ球団を望む声の高まりを受け、ようやく1875年にセントルイス・レッドストッキングスとセントルイス・ブラウンストッキングスというプロ球団が活動を始めたが、どちらも経営的に弱く、レッドストッキングスなどはリーグ加盟後わずか2ヶ月で破綻した。一方のブラウンストッキングスは1876年にナショナルリーグに加盟し、この年ジョージ・ブラッドリーがMLB史上初のノーヒットノーランを達成するなどチーム成績もそれほど悪くなかったが、1877年オフにルイビル・グレイズから補強したジム・デブリンとジョージ・ホールが、ルイビル在籍時の八百長スキャンダルから永久追放となり、ブラウンストッキングスはこのスキャンダルの煽りを受け倒産した。 その後ブラウンストッキングスのフランチャイズ権は、ドイツ移民で地元セントルイスの名士であったクリス・フォン・デル・アーエに1800ドルで買い取られた。アーエは5年後の1882年に、セントルイス・ブラウンズとして新たに球団を設立し、同年創立されたアメリカン・アソシエーションに加盟する。同リーグにはシンシナティ・レッドストッキングス(現:シンシナティ・レッズ)やピッツバーグ・アルゲニーズ(現:ピッツバーグ・パイレーツ)なども加盟していた。ブラウンズの初年度は37勝43敗でリーグ5位(6チーム中)に留まったが、翌1883年には65勝33敗と勝ち越してリーグ2位に躍進した。その後ブラウンズは、監督兼任選手だったチャールズ・コミスキーの下、1885年から1888年までリーグ4連覇を達成する。当時アメリカン・アソシエーションとナショナルリーグは、後のワールドシリーズの前身となる年間王者決定戦を行っていたが、4連覇中のブラウンズのこのシリーズの戦績は1勝2敗1分けで、ナショナルリーグ球団に引けをとらない実力を持っていた。 この間1884年には新たな野球リーグユニオン・アソシエーションが誕生、セントルイスにはブラウンズとは別にセントルイス・マルーンズというチームが創設された。しかし同リーグの会長とマルーンズのオーナーは同一人物で、リーグ創立もチーム運営を認めてもらうためであり、マルーンズありきのリーグだった。そのため、マルーンズがナショナルリーグへの移動が決定したことで、同リーグは1年限りで消滅。マルーンズ自体はその後2年足らずで解散した。 ブラウンズのチーム運営は順調に見えたが、1890年のプレイヤーズ・リーグの設立が、アメリカン・アソシエーションのリーグ運営に混乱を招いた。ブラウンズも監督のコミスキーとチームの主力だったティップ・オニールやシルバー・キングがチームを突如抜けてプレイヤーズ・リーグに参加するという事態も起きた。それ以前からアメリカン・アソシエーションに加盟していた他チームが徐々にナショナルリーグに移動するなどしていたこともあり、1891年にアメリカン・アソシエーションの解体が決定、残ったブラウンズも翌年からナショナルリーグに加盟することとなった。しかしこれらの混乱はブラウンズの戦力を大きく落とし、チームは1898年まで下位に低迷する。 転機となったのは1899年のことで、クリーブランド・スパイダーズを所有していたオーナー達によって、チームが買収され、セントルイス・パーフェクトズに改名、同時にスパイダーズからサイ・ヤングといった主力選手の多くがチームに加入したのである。これによってチームの戦力は一気に上がり、この年にはナショナルリーグ加盟後初の勝ち越しでシーズンを終え、順位も前年の最下位から5位(12チーム中)に上昇した(逆にスパイダーズはこの年、MLBワーストとなる134敗を記録し、同年限りで解散した)。翌1900年にはリーグのチーム数が8チームに固定され、チーム名も現在の名称であるセントルイス・カージナルスに変更された。
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