剣術上の評価影響とは? わかりやすく解説

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剣術上の評価・影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:56 UTC 版)

柳生三厳」の記事における「剣術上の評価・影響」の解説

三巌の流れをくむ西脇流の伝書新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動き待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流違いのびのび和やかに敵の攻撃受けて勝つ心持になったとある。下川潮は『剣道発達』で、この三巌の興した変化によって新陰流受け身主体となり、和らかに、華やかになり、袋撓の上形試合では進歩したが、真剣勝負の上から見ると退歩した評している。一方でこの変化については重心落とした構え中心とした戦場甲冑剣法から、のびのびと「後の先の勝ち」を教えた平時素肌剣法への転換であるとする意見もある。 長州藩には三巌の祖父宗厳高弟である柳生右衛門伝えた新陰流広まっていた。その右衛門高弟である内藤元幸の子・就幸は父から伝授され新陰流家中指南していたところ、江戸で三巌が当流現代風)に改めた新陰流教えているという噂を聞いて江戸出て弟子入りし寛文7年(1667年) 命によって改め毛利家仕官した以後内藤家では右衛門以来の「古流」の新陰流対し、三巌により近代化され新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々これを伝え、後に藩校明倫館にも採用され桂小五郎高杉晋作等も学んだ新陰流刀法応用した杖術と、それに用いるための特殊な製法考案した。この杖術新陰流江戸柳生でも、代々ごく限られた者のみに伝えられる秘伝として扱われその事もあって明治維新後に一度失伝したとも言われるが、大正4年頃に、尾張柳生十一代当主柳生厳長とその父・厳周によって伝書元に復伝された。現代でも、尾張柳生伝えいくつかの団体では復伝されたその技を伝えている。 三厳の流れを組む流派のうち、三厳の門人・狭川新左衛門助永に始まる「西脇流」は紀州藩栄え、後に八代将軍徳川吉宗次男・宗武やその子松平定信修めた他、十五代将軍徳川慶喜一橋藩主時代学んでいる。

※この「剣術上の評価・影響」の解説は、「柳生三厳」の解説の一部です。
「剣術上の評価・影響」を含む「柳生三厳」の記事については、「柳生三厳」の概要を参照ください。

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