剣術上の評価・影響
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三巌の流れをくむ西脇流の伝書『新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動きを待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」になったとある。下川潮は『剣道の発達』で、この三巌の興した変化によって新陰流は受け身主体となり、和らかに、華やかになり、袋撓の上の形試合では進歩したが、真剣勝負の上から見ると退歩したと評している。一方でこの変化については重心を落とした構えを中心とした戦場(甲冑)剣法から、のびのびと「後の先の勝ち」を教えた平時の素肌剣法への転換であるとする意見もある。 長州藩には三巌の祖父・宗厳の高弟である柳生松右衛門が伝えた新陰流が広まっていた。その松右衛門の高弟である内藤元幸の子・就幸は父から伝授された新陰流を家中に指南していたところ、江戸で三巌が当流(現代風)に改めた新陰流を教えているという噂を聞いて江戸に出て弟子入りし、寛文7年(1667年) 命によって改めて毛利家に仕官した。以後、内藤家では松右衛門以来の「古流」の新陰流に対し、三巌により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々これを伝え、後に藩校・明倫館にも採用されて桂小五郎、高杉晋作等も学んだ。 新陰流の刀法を応用した杖術と、それに用いるための特殊な杖の製法を考案した。この杖術は新陰流(江戸柳生)でも、代々ごく限られた者のみに伝えられる秘伝として扱われ、その事もあって明治維新後に一度失伝したとも言われるが、大正4年頃に、尾張柳生十一代当主・柳生厳長とその父・厳周によって伝書を元に復伝された。現代でも、尾張柳生を伝えるいくつかの団体では復伝されたその技を伝えている。 三厳の流れを組む流派のうち、三厳の門人・狭川新左衛門助永に始まる「西脇流」は紀州藩で栄え、後に八代将軍徳川吉宗の次男・宗武やその子松平定信が修めた他、十五代将軍徳川慶喜も一橋藩主時代に学んでいる。
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