剣術家としての庄松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:44 UTC 版)
庄松(源天宴)は、真之真石川流(柳生新陰流の末流とされる剣術流派)の3代目である上州小幡藩の朝倉久馬(源恭良)に学び、安永7年(1778年)、40歳の時に免許皆伝を許され、4代目を継承する事となった。『皇国武術英名録』の巻之三(明治21年発刊)には、門人が数千人もあったと伝えられている。彼は中山道で最大の宿場町とされる本庄宿と小島村との境付近(別伝承では本庄・新田町の金鑚神社周辺)に道場を開き、門弟の指導に当たった(『本庄宿町並絵図』には開善寺[要曖昧さ回避]入口より東3件目に「間口6間・奥行9間半 百姓庄松」とある)。実質的に本庄宿を拠点として児玉郡周辺に真之真石川流を普及させたが、入門者は武州や上州からだけではなく、常陸国や越後国からも来たとされ、本庄周域(地元の門弟)だけでも143名になり、宿内の弟子は73名になる(門弟の中には医師も見られる)。その後、七本木村(現在の上里町大字七本木)の木村政右衛門(源邇豊)が5代目を継承する事となる。庄松は文化4年に69歳で没する。墓所は大正院。法名は密林院円識独空居士。 『真之真石川流 小林庄松源天宴 起請文』(小林新吉所蔵)によると、流祖石川蔵人(源政春)は柳生宗矩の門人となって柳生派真々流を学び、諸国を修行し、自らの氏=石川の二字を加えて改名したとある。
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