前橋市、前橋広域圏との合併協議経緯
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「富士見村 (群馬県)」の記事における「前橋市、前橋広域圏との合併協議経緯」の解説
2001年夏に新潟県にて行われた、前橋広域圏5市町村(前橋市・大胡町・宮城村・粕川村・富士見村)の首長による会合(いわゆる「弥彦会談」)にて「合併特例法期限内に熟度の高まった所から順次合併」という方針が出され、富士見村を含む前橋地域合併が動き出した。 弥彦会談では、実質的には4町村が「前橋市に編入」ということで大筋合意していたが、富士見村議会から待ったがかかる形となり、2002年に前橋広域圏の任意合併協議会が開催されるも参加しなかった。当時の関口村長が議会の圧力もあり自立を表明。このため、村長は住民によるリコールで失職する。 このリコールにより村民から「前橋市との合併」という民意の意思表示が成されたにもかかわらず、その後就任した星野村長は当初「中立」というスタンスを取り、再度、住民投票という形で民意を問うこととなった。結果、合併賛成が63%となり、ここでようやく前橋市との1市1村で法定合併協議会を設置する。他の町村との合併協議会に加わらなかったのは、この時点ではまだ議会が合併に難色を示し先行きが不透明で、他の町村に迷惑をかけないためである。 前橋市と大胡・宮城・粕川の各町村の合併協議は順調に進み、2003年秋に合併調印。この1町2村は2004年12月5日に前橋市に編入された。そして、前橋・富士見の合併協議も2004年夏に「2005年5月1日前橋市に編入合併」で決着、調印された。しかし、その後富士見村議会が民意を無視して合併に反対。2度出された合併議案を共に否決し、星野村長は「自立」を表明した。 合併破談後、前橋広域圏行政の消滅に伴い、消防など一部行政を前橋市へ事務委託しようとしたが前橋市が一方的な合併破棄を理由に難色を示し、結局県などの仲裁により委託を取り付けた。その後、合併協議会は解散し合併調印も取り消された。 これらにより富士見村民は、広域圏行政下で優遇されていた前橋市営斎場利用料や市立工科大学入学料をはじめとする優遇措置を廃止され、前橋市立図書館の利用も市内に通勤、通学する村民以外は原則不可とされた。 また10年間の投資的事業費が合併時の70億円に対して、合併しない場合130億円見込める事が自立の論拠の一つとされたが、実際には2005年度の投資的経費は計画の半額であり、議会は紛糾した。 しかし、2007年4月の村長選で合併推進派の福島節夫が当選、村議選でも合併推進派の勢力が拡大した事から、前橋市との合併に弾みがつき、2008年1月15日に合併協議会が設置され、「2009年5月5日に前橋市に編入合併」で決着を付けた。
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