前橋城再築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/22 14:11 UTC 版)
江戸時代末期、度重なる利根川の洪水で侵食された前橋城から藩主が川越へ去った(明和4年)後、町の衰退を嘆いた領民たちは藩主の帰城を画策し、嘆願書を提出するなどしていた。しかし、当時の幕府は城の増改築でさえ認めることはまれであった。しかも、移転に際しては莫大な費用と労力を要することから、実現させることは非常に困難であった。 しかし、その後、利根川の氾濫に対して治水事業が進んだことから、天保年間には前橋城廃城の直接の原因は取り除かれていた。その後も、町人有志の嘆願は続き、ついに前橋藩から城再築内願書が提出されることとなった(文久2年)。その後も2度にわたって城再築内願書が提出された結果、幕府から前橋城再築と藩主松平直克の移城が内諾された。この時、前橋藩松平家は歴代続いている財政の窮乏状態に加え、台場警備などの財政負担もあり財政的には多難な時であった。そこで期待されたのが領民からの調達金である。未だ再築許可の下りない時点で町民有志荒井久七(七百両)らから一万両ほどの再築資金が集まっていた。大口出資者は主に生糸商人と米商人であり、彼らを中心に多くの町人たちがほとんど全町をあげて再築に協力しようとした。最終的には七万両あまりが調達された。
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