分裂、ボヘミアへの接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:58 UTC 版)
「シロンスク・ピャスト家」の記事における「分裂、ボヘミアへの接近」の解説
ヘンリク2世の死後はその長男ボレスワフ2世が後を継ぎ、同時に未成年の弟達を後見した。一族の男子は全員平等に相続権を有するため、ボレスワフ2世の単独統治も弟達が成年に達するとともに終わり、1248年ないし1251年に公国の分割相続が行われた。ボレスワフ2世はレグニツァ公国を、コンラト1世はグウォグフ公国をそれぞれ創設し、ヘンリク3世(英語版)(波: Henryk III Biały)は後にザルツブルク大司教となるヴワディスワフ・ヴロツワフスキ(ポーランド語版)(波: Władysław wrocławski)と共に父祖伝来のヴロツワフ公国を保持した。 次の世代でも領国の分割相続が行われた。レグニツァからはヤヴォルとルヴヴェクが、グウォグフからはジャガンとシチナヴァがそれぞれ分領公国として自立した。そのまた次の世代でも、ヴロツワフからはブジェクが、ヤヴォル=ルルヴェクからはシフィドニツァとジェンビツェが、グウォグフからはオレシニツァが分立した。ミェシュコ1世によって創設された公国は、公爵の居城のあるオポーレにちなみオポーレ公国と呼ばれていたが、こちらも本家筋のヴロツワフ公国より1世代後には分裂が始まった。ミェシュコ1世の孫であるヴワディスワフ・オポルスキの4人の息子たちは、公国をオポーレ、コジュレ=ビトム、ラチブシュ及びチェシンに分裂させた。次の世代でも分割相続が行われ、オポーレはオポーレ、ニェモドリン、スチェルツェ・オポルスキェの3地域に、コジュレ=ビトムもやはりコジュレ、ビトムおよびトシェクの3地域に、チェシンはチェシンとオシフィエンチムの2地域にそれぞれ分かれた。 こうした領土分割はしばしば激しく紛争を巻き起こし、時にそれは軍事紛争へと発展した。この争いにはシロンスクの諸勢力のみならず、隣接地域であるポーランド、ボヘミアから来た彼らの支持者達も加わっていた。ポーランドとの結びつきが薄れる一方でボヘミアとの政治的な紐帯がだんだんと強まっていったが、この動きは東方植民に起因するシロンスクの内的変化を反映した結果でもあった。 ボヘミアへの接近はピャスト家の公爵達が亡命先から戻ってきた時に既に始まっていた。ヴロツワフ公ヘンリク4世(高潔公)は、ポーランドとボヘミアとの係争地域に領国をもつシロンスク諸公の模範例といえた。父ヘンリク3世が死ぬと、ヘンリク4世はボヘミア王オタカル2世のプラハ宮廷で養育されて後見を受けていた。ヘンリク4世はオタカル2世の死後、幼い息子ヴァーツラフ2世の代理人の地位を得ることはできなかったが、ローマ王ルドルフ1世から保障としてクウォツコを与えられ、神聖ローマ帝国伯爵に叙せられ、自分の公国を帝国の封土として認めてもらった。ヘンリク4世はシロンスクの最有力の諸公となったばかりか、マウォポルスカのドイツ人勢力の支援を得てクラクフ公位を獲得し、ポーランド君主の座についた。彼は当初ヴァーツラフ2世を自分の後継者にしようと考えたが、死の床で意志を翻し、ヴロツワフを従弟のグウォグフ公ヘンリク3世、クラクフをヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世に譲渡し、クウォツコはボヘミアに返還した。
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